下野・諏訪山城(すわやま-じょう)は、鹿沼・諏訪山城と言ったほうが良いかもしれませんが、栃木県鹿沼市深程にある、比高100mほどの山城です。
無量寿院の背後にあるのが諏訪山城となります。
最初の築城としては、室町時代末期に、粟野城主である平野大膳が築いたとされます。
天正16年(1588年)、水戸城主・佐竹義重の支援を受けた宇都宮城主・宇都宮国綱は、北条勢に味方した皆川氏を攻略するため、15000の大軍で攻め込みます。
宇都宮勢は、鹿沼市の下野・茶臼山城(磯城)と、下野・西方城に陣を張ったため、皆川広照は清瀬川(思川)に着陣して対峙しました。
宇都宮勢の石川城主・石川内膳正と、皆川勢の上田定實(上田新右衛門定實)、小倉公寛(小倉主膳之介公寛)との一騎打ちもあったと伝わります。
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しかし、宇都宮勢が大軍であったため、鹿沼の諏訪山城まで退いて籠城しました。
そのため、宇都宮・佐竹勢は猛攻を加えて、3月16日に諏訪山城が落城したとあります。
皆川広照は、真名子城から、布袋岡城へと退却したようですが、相次いで陥落し、皆川家臣の日向野民部が、討死を覚悟した皆川広照に手勢を付けて、密かに真名子城、そして布袋岡城まで逃れさせました。
芳賀伊賀守、逆面周防守らの追撃を受けるも布袋岡城(布袋ヶ岡城)に入った皆川広照は、大量の弓と鉄砲で応戦したと言います。
この布袋岡城の戦いは激戦となり、麓ほ流れる川は赤く染まったため、赤津川(赤血川)と呼ばれるようになったとあります。
皆川広照は布袋岡城も捨てて、皆川城を目指しますが、その折り、壬生義雄が宇都宮城へ兵を向けたとの知ららにより、宇都宮勢は撤退しました。
その後、皆川氏が北条氏直に臣従しますが、下野・諏訪山城には北条家特有の技巧もあるようですので、さらに改修されたものと推測致します。
下野・諏訪山城の遺構は手つかずで、なかなか良い状態で残っているとの事ですが、梅雨の雨につき、登城は断念しました。
駐車場ですが、南側にある無量寿院の駐車スペースを利用させて頂けるようです。
その南側の道路の坂道途中の民家脇から登城口があります。
このあと、雨はやんだのですが、梅雨の時期で登城は断念しました。
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