米沢城の歴史
米沢城(よねざわじょう)は、山形県米沢市にある輪郭式平城で、別名は舞鶴城、松ヶ岬城とも言い、現在は松が岬公園として整備されており、続日本100名城にも選ばれました。
鎌倉幕府の重臣である大江広元の次男・大江時広(長井時広)が1238年に米沢城を築城したのが始まりとされています。
ちなみに大江時広(長井時広)は、東京の片倉城を築いたとも言われ、毛利元就など毛利家の祖である毛利季光の兄でもあります。
室町時代に入ると梁川城主・伊達宗遠が、長井広房を追放・騙し討ちし、以後、米沢城は伊達家の支配下となりました。
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その後、伊達晴宗は桑折西山城から本拠地を米沢城に移し、伊達輝宗と続きます。
1584年、舘山城に隠居した伊達輝宗が二本松城主・畠山義継の計略にて1585年に憤死し、伊達政宗が活躍する事となります。
1589年、伊達政宗は蘆名義広を破ると会津・黒川城を本拠とし、伊達晴宗の弟・伊達宗澄、そして伊達宗清が米沢城代を務めています。
ちなみに、伊達政宗は米沢城にて誕生したと言う事になります。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあと、伊達政宗は米沢城に戻りましたが、1591年、移封され岩出山城に移りました。
その後、米沢は黒川城に入った蒲生氏郷の支配となり、米沢城主には重臣・蒲生郷安が任され、改修を行い白子神社が米沢城鎮守となりました。
1597年、蒲生氏郷の子・蒲生秀行が家中騒動で宇都宮城に移封となると、会津には越後から上杉景勝が120万石で入り鶴ヶ城城主(会津若松城)となります。
この時、米沢城主には重臣・直江兼続を置き、白石城は甘糟景継、福島城は本庄繁長、梁川城は須田長義、東禅寺城には志駄義秀を配置しました。
1600年、関ヶ原の戦いのあと、上杉景勝は米沢城主・30万石に減封となり、以後、明治維新まで米沢藩上杉家の居城は米沢城となっています。
1608年に直江兼続は米沢城の大改修を行っており、輪郭式の縄張りが1613年に完成し、本丸には御殿と上杉謙信の遺骸を移して霊屋を設置しました。
質素な暮らしを強いられていたことからも、石垣や天守は設けず、天守の代わりとしては3階櫓を2基置いたと言います。
明治6年に米沢城は破却され、明治9年(1876年)、上杉謙信霊柩は上杉家廟所へ移され、上杉神社が本丸跡に移転しました。
なお、米沢城本丸にあった上杉謙信を祀る御堂(みどう)が、長命寺の本堂として移築・現存します。
上記写真が長命寺の本堂で、かつては米沢城本丸の高台にありましたが、明治9年(1876年)に移築され、本堂には上杉謙信公位牌が安置されていると言います。
長命寺は米沢幼稚園の近くにあります。
下記は米沢城の城下町の図。
米沢城の駐車場
さて、米沢城への行き方・交通アクセスですが、米沢駅から歩く場合は、距離が2.2km、徒歩30分とちょっとあります。
そのため、駅レンタカー米沢営業所などにて「自転車」のレンタサイクルもありますので、お勧めです。
なお、JR米坂線の南米沢駅からは徒歩で約10分。
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米沢城(上杉神社)の無料駐車場は下記のポイント地点となります。トイレ完備です。
地図は縮尺を変えてご覧願います。
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