深大寺城
深大寺城(じんだいじじょう)は、東京都調布市深大寺元町にある平城跡で、武蔵七党の狛江入道増西による築城との伝承がある国史跡。
戦国時代の1524年に、北条氏綱(北條氏綱)が江戸城を攻略すると、川越城主・扇谷上杉朝興の家臣である難波田城主・難波田憲重(なんばだ-のりしげ)が、深大寺城主も兼ねた可能性がある。
1530年6月12日、上杉朝興と北条氏康の戦いとなる「小沢原の戦い」が多摩川の南となる小沢城などにて行われたが、この時、進軍する扇谷上杉勢は「ふるき郭」と当時の記述がある深大寺城に駐屯したものと推測される。
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1537年4月、扇谷上杉家を継いだ上杉朝定は、江戸城奪還を目論み、更に小田原城主・北条氏綱の武蔵進出を食い止めるため、難波田広宗(難波田弾正広宗)を深大寺城に入れて改修させている。
深大寺城の警戒の為、北条氏綱は家臣の北条綱種(北条綱高・高橋綱種)を牟礼砦と烏山城に入れて深大寺城への備えとし、直接、上杉朝定の本拠・河越城を攻撃した為、深大寺城の扇谷上杉勢は急ぎ河越城へと後詰している。
扇谷上杉家と北条家とで河越城の奪い合いが行われたころには、深大寺城から扇谷上杉勢は撤退していたようで北条家による大規模な改修も行われたようだ。
その後、1546年4月20日、河越城の戦い(河越夜戦)にて北条氏康が大勝利を収めると、深大寺城の重要性は薄れた。
上記は、深大寺城の二の郭(二の丸)で、結構広いです。
二の丸と一の郭(本丸)の間には、堀と土塁が発掘・復元されています。
上記は建物跡です。
発掘調査しますと、史跡保存の為、単純に埋め戻す事が多いのですが、このような形で見えるようにして頂けますと、建物の大きさなどが想像できて良いですね。
また、土塁の復元と言い、草刈の整備状況と言い素晴らしいです。
上記は、本丸と二の丸との間の土橋ですが、昔は当然もっと細かったようです。
深大寺城は標高50mにある連郭式平城であり、東の湿地帯との比高は約13mとなります。
南側の崖下には現在、中央高速が通過しておりうるさいです。
上記は東の湿地帯から撮影した深大寺城の高台です。
とにかく、深大寺と言い、水が豊富なところですね。
交通アクセスですが、現在、深大寺城は、東京都が整備した神代水生植物園の園内にあります。
開園時間は朝9時30分~閉門が16時30分となっています。
また、定休日があり、月曜日(月曜日が祝日の場合には翌日)と年末年始がお休みです。
実は、先日、火曜日に訪問したのですが、前日が祝日だったので閉まっていて入れませんでしたので再訪問となった次第です。
深大寺の北にある神代植物公園とは異なり、水生植物園は入園無料です。
水生植物園(深大寺城)への行き方・アクセスですが、下記の地図ポイント地点が入園口となります。
駐車場はありませんが、入園口のすぐ西側にタイムズがありますので、非常に便利です。
バスの場合には、終点・深大寺バス停から、徒歩3分となります。
地図は縮尺を変えてご覧願います。
・深大寺(お寺の方)の訪問記はこちら
・難波田城と難波田憲重とは~難波田氏を継承した難波田憲次も
・小沢城(川崎市)と小沢原の戦い~勝坂と隠れ谷・小沢蔵屋敷
・牟礼砦の歴史解説~北条綱種(北条綱高・高橋綱種)が活躍した三鷹の城跡
・三鷹・天神山城とは~小さな城跡も謎は大きい仙川の城
・江戸にある史跡巡り用オリジナルGoogleマップ
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