上野・伊勢崎城(いせざき-じょう)は、群馬県伊勢崎市曲輪町にある平城です。
戦国時代には、上野・赤石城と呼ばれていました。
最初の築城としては、上野・今村城の那波宗俊が、築城の名人とされる赤石左衛門尉に築かせたとされます。
ただし、赤石城主としては赤石左衛門と見られるのですが、これは、以前にも近くに赤石城があり、新しく築城した城も、引き続き赤石城と呼ばれた経緯があるためです。
恐らくは、前橋市飯土井町にある赤石城が、1525年前後に築城されており、赤石左衛門尉(あかいしさえもんのじょう)の本拠であったと推測されます。
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1560年頃、那波宗俊は北条氏康に寝返ったため、上杉謙信らの軍勢によって、上野・今村城と、上野・赤石城が落城し、那波氏は衰退することになります。
1561年、由良成繁が赤石郷の所領を伊勢神宮に寄進し伊勢宮を守護神としたため「伊勢の崎」と言う地名にかわり、城名も上野・伊勢崎城となりました。
なお、赤石城は奪われたり、奪い返したりを繰り返したようで、1566年にも、上野・金山城の由良成繁が赤石城を攻略したようです。
1573年には、第2・赤石城の本丸を中心に、乾曲輪・東曲輪などで囲まれていたと言う記録があります。
利根川の支流となる、広瀬川沿いに築かれていますが、上野の城跡は、みんな川の脇にありますので、川運も行っていたのでしょう。
関ヶ原の戦いのあと、徳川家の直参である稲垣長茂(いながき-ながしげ)が、1万石の大名として伊勢崎に入り、伊勢崎藩主となりました。
このとき、使われていなかった伊勢崎城を再整備して、伊勢崎陣屋が構えられています。
そして、伊勢崎の城下町を整備しました。
伊勢崎駅前にある同聚院の武家門は、稲垣長茂の屋敷門と伝わります。
伊勢崎藩主になった稲垣長茂は、この同聚院付近に館を構えていたようで、陣屋が完成すると、屋敷は同聚院に引き継がれ、門が残ったと言う事になります。
なお、同聚院(どうじゅいん)は、1159年に、相模・衣笠城の三浦義明が赤石左衛門の菩提を弔うために創建したと伝わります。
赤石左衛門と言う、戦国時代にも同じ名の武将が、平安時代末期にもいたのでしょうか?
左衛門尉と言うと、名門・三浦氏がよく使う官位でもあり、鎌倉時代のはじめころ、三浦謙庭(三浦河内守謙庭)と言う武将が上野・赤石館主だったようです。
そのため、その三浦氏が赤石氏を称してもおかしくないのですが、三浦謙庭(三浦河内守謙庭)の出自などは不明で、赤石左衛門と称したのかも、確証が得られませんので、現時点では不明です。
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1616年、稲垣重綱のとき、伊勢崎は徳川秀忠の家老で前橋藩主・酒井忠世の領地5万2000石に組みこまれました。
そのため、陣屋は廃されたようですが、のちに分与された酒井忠寛が、1681年から2万石にて伊勢崎藩を立藩し、伊勢崎陣屋も再建されました。
現在、上野・伊勢崎城跡(上野・赤石城跡)を示すような遺構や石碑などはありません。
本丸跡は、伊勢崎市図書館が建っている場所とされます。
伊勢崎陣屋跡は、伊勢崎市立北小学校の場所となりますが、同様に何も無いようです。
なお、伊勢崎陣屋の書院などが旧森村家(大きな民家)に移築されていますが、見学は第1日曜日・第3日曜日の月2回のみとなっているようです。
ただし、見学は無料です。
と言う事で、伊勢崎城跡となる伊勢崎市図書館への交通アクセス・行き方ですが、上野・伊勢崎城(赤石城)の図書館の駐車場(北側)にクルマを止められます。
あと、稲垣長茂の屋敷門があるお寺さん「同聚院」の駐車場も拝借できます。
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しかし、見どころが、門以外になく、寂しい限りです。
夏場は熱中症にご注意願います。
次は、北上して毒島城へ向かいました。
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