福井県

疋壇城(疋田城) 刀根坂の戦いの7日後に朝倉氏滅亡

疋壇城(疋田城)

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疋壇城(疋田城)とは

疋壇城(ひきだ-じょう)は、福井県敦賀市疋田にある、比高20mほどの丘城で標高は90mになります。
疋田城と書く場合も多いですが、疋田は古くから北陸道の要所で、柴田勝家がのちに栃ノ木峠を抜ける東近江路(北国街道)を開通させるまで、京から越前・北陸方面に抜けるには、必ず刀根坂を越える必要性がありました。
奈良時代にもうけられた鈴鹿関・不破関とともに古代三関(さんげん)の1つである北陸道の愛発関(あらちのせき)は、疋田にあったのではと比定されています。
このような交通の要所であったため、文明年間(1469~87年)に、朝倉家の家臣・疋壇久保(疋壇対馬守久保)によって築城され、近江・越前の国境を警備しました。


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1570年4月26日 織田信長が越前攻めを開始した際に、金ヶ崎城・手筒山城と同じころに疋壇城は落城したようです。
しかし、4月27日 浅井長政の裏切りが判明し、織田信長は京に退却しました。

疋壇城(疋田城)

そのあと、疋壇城は修復されたようで、栂野景仍(栂野三郎右衛門尉景仍)らが布陣しました。
栂野景仍は、栂野吉仍(とがの-よしあつ)とも言う朝倉義景の家臣のようです。

疋壇城

織田信長は姉川の戦いのあと、1573年に近江・小谷城の浅井長政を3万で包囲します。
この時、朝倉義景は、山崎吉家・河井宗清ら2万の軍勢にて小谷城を救援しようとしましたが積極的戦わず、疋田城へ撤退を開始しました。

疋壇城(疋田城)

この動きを見逃さず、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・木下秀吉・丹羽長秀らは朝倉勢を追撃し、8月12日に刀根坂の戦いとなりました。

疋田城

刀根坂の戦いがあった場所は、玄蕃尾城がある南方にある刀根峠(久々坂峠)の南側で、山の中です。
朝倉勢は約3000名が討死すると言う大敗北を喫し、北ノ庄城主・朝倉景行、17歳の朝倉道景、山崎吉家斎藤龍興、詫美越後守、河合吉統などが命を落としました。
ほぼ壊滅した朝倉義景は、僅かな手勢だけで一乗谷城に帰還しましたが、刀根坂の戦いから7日後に自刃しています。

疋田城

この時、疋壇六郎三郎の疋壇城(疋田城)も陥落した訳ですが、河合氏の家臣?・鳥居与七郎の妻が、織田勢によって乱暴を受けそうになったと言います。
このときその妻は「私の父と夫は刀根にて戦死し、母と姉は行方不明ですが、生きていると思うので、私の身の上を伝えたい。その望みが叶えば御意に従う。」と言い、一筆したためたと言います。

疋壇城

しかし、その書状を書き終えると、近くの古井戸に駆け込んで、身を投げたと言います。
残された書状には「世にふれば よしなき雲ぞ おほふらん いざいりてまし 山の端の月」(自らを月にたとえ、生きてこのまま辱めを受けるなら、死んでしまおう)と言う辞世の句があったと言います。
この鳥居与七郎の妻は、河合安芸守吉統の娘で、河合吉統(かわい-よしむね)も刀禰坂の戦いで討ち死にしました。

疋壇城(疋田城)

その後、廃城になったようで、柴田勝家は北国街道を整備した為、疋壇は疋田宿として栄えたようです。

疋田宿

交通アクセス

交通アクセス・行き方ですが、JR北陸本線の新疋田駅から徒歩10分と近いです。
かつて小学校があった跡地に、クルマを止めることができます。
ただ、北側から侵入しますと、途中から未舗装にもなり、道も細いですので、クルマの場合、南側から入って行ったほうが良いです。
本丸脇に広い駐車スペース(小学校跡地)がありますので、当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。
見学所要時間は15分~30分といったところです。

付近には、戦国時代武将の墓と呼ばれる墓が点在しており、刀根坂合戦で討死した武将が眠っているようです。

刀根坂の戦い

疋壇氏の墓所は宗昌寺の裏山にあるそうです。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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