新潟県

越後・勝山城(糸魚川) 難所「親不知」の防衛拠点

越後・勝山城

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越後・勝山城(かつやま-じょう)は、新潟県糸魚川市大字市振にある山城で、標高は328m、比高は70mほどになっています。
別名は落水城・堕水城とも言います。

糸魚川から朝日町にかけての日本海沿岸は、崖の高さが300mほどある親不知(おやしらず)もありますが、越後国と越中国の間を往来する交通の難所でした。
最初の築城としては、平安時代末期に木曽義仲が越後から越中に入ろうとするのに抵抗した地元の豪族が城として、越後・勝山城を整備したとも言います。


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このように、北陸浜往還の重要な区間でしたので、戦国時代になると越後の上杉謙信も、重要防衛拠点でもあり、越中への進出拠点にもなりました。
ただし、勝山城と言う城名も、越前・勝山城、下野・勝山城、甲斐・勝山城、能登・勝山城とたくさんあります。
同じ新潟には、新潟県刈羽村滝田にも越後・勝山城がありますので、増々、注意が必要です。

なお、上杉謙信の時代には落水城(おちりみずじょう)と呼ばれています。
西方の動きは越後・勝山城を起点として、不動山城、徳合城などを経て、狼煙で春日山城へ伝えられました。

上杉景勝が春日山城主となると、織田信長の重臣・佐々成政魚津城越中・松倉城と上杉領を次々と攻略してきます。
このとき、上杉家はかなりピンチでして、上杉景勝は、1582年に落水城を大改修して、最後の砦としました。
このとき、落ちるでは縁起が悪かったため、勝山城と、縁起が良い名前にと変更しました。
須賀盛能(須賀修理亮)、秋山定綱(秋山伊賀守定綱)、荻田主馬などが守備に入っています。
しかし、本能寺の変となり、織田勢の侵攻が止まったため、上杉家は救われました。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、佐々成政を排除して、前田利家に越中を与えた頃、上杉景勝はいち早く豊臣家に臣従します。
このとき、上杉景勝・直江兼続は、この越後・勝山城にて羽柴秀吉・石田三成らと会談を行ったともされており、同盟が結ばれたため「落水盟約」とも言われています。
伝承では、羽柴秀吉が自らサプライズで会談を申し入れし、あわてて上杉景勝らが馬を飛ばして駆けつけたとあります。

1598年、上杉景勝が会津120万石へ転封になると、越後・勝山城は廃城になっています。


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越後・勝山城への交通アクセスですが、電車の場合、JR青海駅から富山方面へ向かうこと徒歩約20分で登山道入口です。
クルマの場合国道8号、勝山トンネルの東側の日本海側に、廃業しているドライブインがあります。
その倒産しているドライブインの駐車スペースが利用可能ですが、ここで曲がるとは誰も思いませんので、早めにウインカーを出してください。
当方のオリジナル新潟地図にて場所がわかるようにポイントしておきますので、カーナビ代わりにもお使い頂けますと幸いです。
国道の反対側・山側に登城口があります。
登山道は整備されているようで、50分ほどで登りきった所が本丸になっています。
急勾配でロープもありますので、滑らない軍手があるとよいみたいです。
春や秋にはクマ・サル・イノシシなどに注意です。
今回は、たまたま通行しただけですので、登城まではしていませんので、悪しからず。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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