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越中・守山城(二上山城)
越中・守山城(もりやま-じょう)は、富山県高岡市にある山城で、標高259m、比高は250mとかなり堅固な城で、松倉城、増山城と並び、越中三大山城のひとつになります。
二上山城と書く場合も多いですが、他の別名としては、二上城、海老坂城、師子頭城、森山城とも言います。
最初の築城時期は不明ですが、南北朝時代の末期である1371年に、南朝勢の桃井直常が、石動山・天平寺の宗徒と一緒に、越中守護・斯波義将の本城・守山を攻め落としたとあります。
と言う事で、越中守護になっていた斯波氏が本拠として使用していたようですが、越中では比較的新しい時期から使われた城跡と言えるでしょう。
ただし、本当に山の中と申しましょうか、山の上にあります。
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しかし、近隣に防御性が良い場所もないことから、新しく越中守護になった畠山氏も本拠として使用しています。
そして、守護代の神保氏も放生津城の詰城として活用しました。
1519年、越後守護の長尾為景が越中に侵攻した際には、神保慶宗は放生津城ではなく、越中・守山城(二上山城)にて籠城しています。
1568年、春日山城の上杉謙信は、守山城主になっていた神保氏張を攻撃しています。
神保氏張(じんぼう-うじはる)は、能登・畠山氏から神保氏重の養子になっいたようですが、上杉謙信に臣従していた神保長職と対立していました。
そのため、攻撃を受けましたが、越後で本庄繁長の乱が発生したため、上杉謙信は守山城の囲みを解いて退却しています。
しかし、神保家から神保氏張の領地は取り上げられました。
その後、1572年頃に神保長職が死去すると、京に追放されていた神保氏張は織田信長に接近したようで、正室には神保・稲葉夫人(織田信秀の娘)を迎えています。
そして、神保長職の跡を継いだ神保長住に協力して、能登の長連龍らと共に織田勢に加わると、越中・能登の平定に尽力して、越中に復帰したようです。
嫡子・神保氏興は佐々成政の婿になり、織田家との関係を強めています。
1584年、小牧・長久手の戦いになると、佐々成政は、豊臣秀吉・前田利家と対立します。
佐々勢は窮地に陥り、阿尾城の菊池武勝が寝返えると、神保氏張は討伐に向かいましたが、その隙に越中・守山城で家臣が謀反を起こし、留守を守っていた父・神保氏重が討ち取られました。
神保氏張は、反乱を鎮圧しましたが、阿尾城は前田利益らが救援しており、討伐は失敗しています。
その後、佐々成政が豊臣秀吉の降伏すると、九州攻めで戦功をあげ肥後国を賜ります。
この時、神保氏張も従って九州に渡りました。
国人一揆が発生した際に、神保氏張は隈本城(熊本城)にて籠城指揮を執っています。
しかし、佐々成政が一揆勃発の責任をとり切腹して改易・所領没収とにったため、神保氏張も浪人となりました。
ただし、すぐに徳川家康に仕え、下総・香取郡に2000石を与えらています。
1592年、朝鮮攻めの際に、徳川家康が肥前・名護屋城に出陣すると、内藤信成に代わって江戸城の留守を守っています。
だいぶ話がそれてしまいましたが、佐々氏のあと越中を支配した前田利家は、嫡子の前田利長に越中・守山城を与えましたので、やはり、重要拠点であったことには間違いなさそうです。
しかし、富山城を整備すると、1597年に前田利長は富山城へ移り、越中・守山城には一族で重臣の前田長種が入っていますが、ぼとなく廃城になりました。
現在の越中・守山城(二上山城)には、万葉ラインと言う舗装路が整備されており、山頂付近は公園になっていて、無料駐車場もあります。
支峰城山の最高所が本丸のようで、若干ですが、石垣も残っています。
しかし、その公園と道路設置のために、遺構の多くは破壊されているのが現状です。
ただし、晴れていれば、上記でご紹介したように、展望は素晴らしいです。
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交通アクセス
越中・守山城への交通アクセス・行き方ですが、坂道をずっと登って行きますので、車やバイクでないと厳しいです。
なお、万葉ライン(通行は無料)は、冬季(12月~3月)ゲートが封鎖されて通行止めになります。
高岡駅からクルマで20分くらいの距離です。
越中・守山城の見学所要時間は約15分でした。
なお、越中・守山城の先に、大伴家持の銅像があるカーブもありますので、お好みでどうぞ。
・越中・松倉城 山の奥にある椎名氏の本城
・放生津城 神保慶宗と越中守護代家神保氏
・古国府城 (越中国守館・越中国衛跡)
・富山城 続日本100名城 神保長職と神保長住
・魚津城 上杉勢13人の武将が自刃した魚津城の戦い
・増山城 攻防が続いた続日本100名城で広大な富山の山城
・阿尾城 日本海に突き出た要害を前田慶次郎が守備
・日本全国のお城マップ(オリジナル)
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