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増山城とは
増山城(ますやまじょう)は、富山県砺波市にある山城で、標高は120m、比高は60mほどになります。
別名は和田城と言い、越中・松倉城、越中・守山城とともに越中三大山城と称されます。
国の史跡であり続日本100名城にも選ばれました。
山全体が城になっており、東側には支城の越中・亀山城、孫次山砦など、そして赤坂山屋敷・団子地山屋敷が連なり、増山城郭群と呼ばれます。
また、西側は天然の堀になる和田川が流れており、対岸に城下町が形成されたようです。
砺波市教育委員会さんなどが整備もしており、大変見学しやすい、山城になっています。
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最初の築城は南北朝時代とされ、庄ノ城などを築いた桃井直常の勢力が砦として使用していたようですが、北朝勢力により排除されたようです。
1363年には二宮円阿が和田城(増山城の前身)を守備しました。
二宮円阿は越中守護・斯波高経の家老で、信濃の野尻城などを攻略しながら越中にやってきて、南朝に味方した桃井直常の討伐に従軍しており、越中・鴨城にも入ったようです。
ちなみに、戦国時代には、子孫と考えられる二宮長恒(にのみや-ながつね)が、上熊野城主として神保長職、そして上杉謙信・上杉景勝に従っています。
増山城のほうは戦国時代になると、1560年に、神保長職が上杉謙信によって富山城を攻撃された際に、堅固な増山城にて籠城しており、神保氏によって改修されました。
その後、何度か上杉勢に攻められた際にも、神保長職は増山城に籠っており、軍事的な本拠地となりました。
しかし、度々、上杉家に背いて一向一揆に協力したため、上杉謙信の3度目の攻撃となった1576年、増山城は落城しました。
そのあとには、上杉勢で吉江城主・吉江宗信が、増山城主を任されています。
そのあと、一族の神保長住(じんぼう-ながずみ)が仕えて織田信長より助力を得ます。
そして、1578年に上杉謙信が死去したあと、織田家の佐々長穐らの兵を使って越中に進軍しました。
このとき、斎藤信利、小谷六右衛門、二宮長恒などが神保氏に味方し、神保長職の子・神保長城がいた越中・増山城を落城させています。
その後、越中の中心は富山城に移ります。
富山城も柴田勝家ら織田勢が占領したころには、佐々成政の重臣・佐々平左衛門、佐々源六(佐々勝之)にど、一族が増山城に入りました。
この時も改修を行ったようです。
本能寺の変のあと、佐々成政は、小牧・長久手の戦いでは、徳川家康・織田信雄に味方したため、豊臣秀吉と対立します。
1584年、豊臣秀吉は自ら出陣して前田利家ら10万の大軍にて富山城を包囲しました。
佐々成政は降伏し、富山城は破却されましたが、前田利家に越中は与えられると、前田利長が松任城から32万石で富山城に入ります。
そして、前田家の中川光重、山崎長鏡が増山城主となりました。
1586年には、上杉景勝が豊臣秀吉に挨拶するため上洛しますが、その途中、中田で増山城主・中川光重の饗応を受けています
その後、1615年の一国一城令にて、増山城は廃城となり、麓に増山陣屋が置かれました。
二ノ丸が最高所(124m)となるため、本郭(本丸)と言う事になります。
どうして、二の丸になったのかと申しますと、城下から見て、最初の段を一ノ丸、次を二ノ丸と地図には記載されているためとなります。
なお、城郭郡で最も標高が高いのは、越中・亀山城の部分で133mになります。
登山道を歩いていくと左右の尾根にある見事な薬研堀があるそうです。
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毎年秋には、増山城戦国祭りが開催されています。
増山城への交通アクセス
増山城への交通アクセス・行き方ですが、JR城端線の礪波駅から、加越能バス・栴檀野線に乗車して、増山バス停下車の徒歩30分で和田ダムになります。
タクシーですと片道2500円くらいです。
バスは本数も少ないので、砺波駅にある観光案内所か、道の駅・砺波にて、レンタサイクル(貸自転車)を借りると言うのも良いかもしれません。
電動自転車もあるようですが、冬季は危ないので、1月・2月は貸し出しされてません。
駐車場は、和田川ダム近くにある無料駐車場が利用可能です。
富山城からですと、自動車で40分ほどの距離になります。
ダムサイトに、増山陣屋があり、鈴付きの杖を借りることができます。
また、陣屋に張ってあっるQRコードを読み取ると、春風亭昇太師匠による解説を聞くことができます。
なお、増山陣屋は、冬期12月~3月14日まで休館です。
続日本100名城のスタンプ(スタンプシール)は、増山陣屋にありますが、冬期は休みの為、スタンプは、砺波市埋蔵文化財センターに移動しているようです。
もちろん、和田ダムでは、ダムカードの無料配布もありますので、私は、そっちのほうが興味あります。
なお、砺波市埋蔵文化財センターにて、登城時の写真をお見せすれば、登城証明書なるものを頂けるそうです。
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増山城の見学所要時間ですが、ダムから二の丸(事実上の本丸)往復で約30分とのことです。
支城のほうまでくまなく見ると、もっと時間がかかります。
今回、ぜひ、登りたかったのですが、雨も強かったので、断念しました。
クマやシカに注意ですが、埋蔵文化センターのお姉さんが、とても親切だと噂になっております。
また、ほど近い場所には、伝長尾為景塚と言う、長尾為景の墓がありますので、ご興味がある方はセットでどうぞ。
・越中・松倉城 山の奥にある椎名氏の本城
・富山城 続日本100名城 神保長職と神保長住
・魚津城 上杉勢13人の武将が自刃した魚津城の戦い
・越中・守山城(二上山城) 神保氏張による神保氏の復活
・庄ノ城(壇城) 桃井直常と石黒与三右衝門
・富崎城 神保長職の本拠だった城跡か?
・日本全国のお城マップ(オリジナル)
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