富山県

越中・小出城 唐人親広 何度も取り合いになった最前線

越中・小出城

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越中・小出城(こいで-じょう)は、富山県富山市水橋小出にある平城です。
現在、小出神社がある場所が微高地になっており、平成の発掘調査では150mほど北方に、堀跡も発見されました。
小出城も信濃・小出城があるなど、他国にもありますので、混同しないよう注意が必要です。

最初の築城としては、鎌倉時代の末期に小井出氏の屋敷があったと推定されています。


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戦国時代には、唐人式部(かろうどしきぶ)なる武将が越中・小出城に居たようです。
日本人としては、かなり珍しい苗字ではありますが、漢字から推測するに、単純に唐人(中国人)であったことが伺えます。

諸説ありますが、唐人(からうど)氏は越中・松倉城の椎名氏に仕えて被官だったようで、唐人親広(唐人兵庫大輔、唐人武部兵庫正)が越中・小出城主でした。
1545年、長尾為景に敗れたあと、唐人兵庫が越中・小出城に入ったともありますが、実際に、長尾為景は1543年に死去していることから、んかとも言えません。
1566年、揖美庄助五郎(弓庄助五郎)の越中・小出城主が、上杉謙信に攻略されて、長尾小四郎景隆が入ったともあり、そのあと、唐人親広に与えられた可能性があります。

越中・小出城

唐人親広(かろうど-ちかひろ)は、岸和田流炮術の砲術・鉄砲に秀でた武将だったようで、伊勢・長島などから一向一揆を支援するため、越中にやってきたとする説もあります。
別の説では、椎名氏のあとは神保氏に仕え、1572年、一向一揆の攻撃の際に富山城に入っていました。
しかし、一揆勢からの内応に応じて寝返ったことで、富山城が落城したともあります。(1582年にも同じような話がある)
その後は、上杉謙信に従っていたようで、1576年、上杉勢が能登に侵攻した際には参陣し、平子和泉守、轡田肥後守と共に能登・甲山城主を命じられました。
そのころには、椎名家を継いだ長尾景直(椎名景直)の領地になっていたと推測されます。
1578年、上杉謙信が死去すると、織田家から誘われたようで、唐人親広(加老戸親広)は、越中・願海寺城の寺崎盛永、越中・木舟城石黒成綱らと織田勢の軍門に下りました。
しかし、御館の乱になると、神保長住に従っていた長尾景直の配下になっています。
鉄砲を扱える貴重な武将だったようで、あちこちから誘いを受けています。
特に、神保長住と椎名小四郎が、唐人親広の取り合いをしたようで、柴田勝家が仲裁しています。


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一方、越中・小出城のほうは、1579年に佐々成政が攻略して、久世但馬が入りました。
1581年、佐々成政、神保長住が京都・馬揃えで不在のとき、越中・松倉城にいた、上杉家の河田長親が越中・小出城を攻めています。
この時は、佐々成政の家臣・久世但馬守が頑張って長期戦となりました。
佐々成政が戻ると荒川の戦いとなり、河田長親は松倉城へと撤退しています。。
この頃の、唐人親広の動向は不明ですが、越中・小出城には、佐々家の佐々喜藤次、佐々喜右衛門と代わって入ったようです。

1582年、唐人親広は、富山城に復活していた神保長住に従い、一向一揆の攻撃を防いでいましたが、武田勝頼に呼応して小島職鎮(小嶋六郎左衛門)と共に、神保長住を富山城内に押し込めて、城を乗っ取ったとされています。
しかし、富山城は柴田勝家ら織田勢に奪還され、敗れた唐人親広らは五箇山へ落ちのびたと言います。
その後、直江兼続に取り立てられたようで、越後・勝山城主となり、越中攻めでは先鋒を務め、上杉家の砲術指南役となり、越後国能生で死去したと言います。
上杉家が米沢城に移ったあとには、直江兼続の与板衆のなかに、唐人丹後守広親200石との記載が見受けられ、代々式部を名乗ったようです。

越中・小出城

なお、1582年の時点で、上杉家はかなり厳しい状況で、越中では織田勢が躍進し、魚津城も陥落しました。
しかし、明智光秀による本能寺の変織田信長が横死したことで、織田勢は撤退し、上杉勢の須田満親が越中・小出城などを奪取しました。
ただし、上杉家は戦力が低下しており、1583年、佐々成政が魚津城を包囲すると、須田満親は魚津城と小出城を明け渡すことを条件に開城・撤退しました。
しかし、佐々成政の反対勢力である越中・弓庄城土肥政繁が、越中・小出城と越中・新庄城を攻略しています。
でも、維持できる力はなく、撤退を余儀なくされたようです。

1585年、豊臣秀吉が佐々成政を成敗すると、越中・小出城の名は歴史に出なくなりました。

でも、上記でご紹介したとおり、越中での激戦となった場所であり、何度も何度も攻防があったところです。
現在、宅地・水田になっており、遺構はありませんが、なにか整備されることを期待したい、歴史上、とても重要な城跡です。


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交通アクセス・行き方ですが、あいの風とやま鉄道の水橋駅から徒歩約15分です。
駐車場はありませんが、神社に駐車スペースがあります。
場所は下記の当方の地図にてご確認頂けますと幸いです。

魚津城 上杉勢13人の武将が自刃した魚津城の戦い
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越中・松倉城 山の奥にある椎名氏の本城
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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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