越中・松倉城は、富山県魚津市鹿熊にある標高430m、比高360mの規模が大きな山城です。
別名は、鹿熊城、金山城、松蔵城とも言います。
越中・増山城、越中・守山城と並んで富山三大山城・越中三大山城の1つになります。
最初の築城は不明ですが、南北朝時代の1335年頃に、越中守護となった井上俊清(普門利清・普門蔵人利清)が築いたとされます。
なお、松倉城と言う名前の城は、飛騨・松倉城、尾張・松倉城などもありますので、混同しないよう注意が必要です。
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その後、1344に井上俊清が罷免され、越中守護に足利一族で桃井城の出である桃井直常(もものい-ただつね)が補任されると、越中・庄ノ城、千代ヶ様城、布市城、津毛城など築いて越中支配を進めました。
そのため、井上俊清と桃井直常は争う事になったようですが、最終的に桃井氏が勝利したようで、井上俊清は越中・内山城へ逃れたのち行方は不明です。
しかし、桃井直常は足利尊氏に反発して、足利直義・足利直冬の有力武将となったことから、やがて南朝に味方するも次第に衰退して行き、最後は姉小路尹綱を頼って飛騨に逃れています。
その後、越中・松倉城に入ったのは、下総・椎名内城から出た椎名氏(しいな-し)です。
椎名氏は、千葉常胤の弟・椎名胤光からの氏族で、椎名頼胤(椎名孫八頼胤)が越中・松倉城に入りました。
椎名孫八入道と言う武将も見受けられますが、同一人物の可能性はあります。
どうやら、桃井氏の家臣として椎名氏が支援していたようで、その後、守護になった斯波高経・斯波義将に従いました。
そして、1380年、越中守護が畠山基国(はたけやま-もとくに)に交代します。
1392年、相国寺供養の奉納にて、畠山満家の郎党30騎のなかに椎名長胤の名があることから、椎名氏は、越中・畠山氏の重臣になっていたようです。
しかし、越中守護代は遊佐氏ですので、有力被官と言う事になるでしょう。
近くにある松倉金山は、応永年間には松倉金山が発見され、産出量も豊富だったようで、その経済力を背景に、椎名氏は、魚津城、水尾城、北山城(金山城)、小菅沼城、越中・升方城、坪野城、越中・天神山城といった支城を整備して行きました。
戦国時代に入って、椎名慶胤(しいな-よしたね)は、神保慶宗の乱に加わり、越中守護・畠山尚長に従わなくなっています。
しかし、1520年、越後守護代・長尾為景に、境川の戦いで敗れ、新庄の戦いで神保・椎名勢はは壊滅しました。
跡を継いだ椎名長常は、長尾為景に臣従しましたが、神保家を再興した神保長職の圧迫を受けます。
そして、椎名康胤なる武将が(しいな-やすたね)が家督を継ぐと、能登・畠山氏が内紛となり、1557年、椎名宮千代なる武将が、八代俊盛を畠山義綱に援軍として海路から送っています。
椎名宮千代なる武将が椎名康胤かは、よくわかっていません。
1559年、富山城主・神保長職が再び攻勢に出たため、椎名康胤は春日山城の長尾景虎(上杉謙信)に援軍を要請しています。
1560年、上杉勢が越中に入ると富山城、越中・増山城を攻略したため、神保長職は和睦しています。・
しかし、上杉勢が越後に戻るたびに、神保長職は再起して度々合戦になっており、椎名家の重臣・神前孫五郎、土肥二郎九郎などが討死しています。
このように、上杉家と友好な立場を取っていたようで、上杉謙信が関東の常陸・小田城などに出陣した際には、椎名康胤が春日山城の留守を任されるなど信用もされていたようです。
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ところが、武田信玄の調略に乗り、1568年、椎名康胤は上杉家から離反しました。
そのため、上杉謙信は越中・松倉城を包囲しましたが、堅固な山城で攻略できずに2ヶ月ほどで帰っています。
その後、三木良頼の仲介を受けて、上杉家と和睦しましたが、1573年、武田信玄が西上開始すると、加賀一向一揆と共に、再び上杉家に反しました。
そして、上杉勢は2万9000にて一向一揆を撃破し、再び越中・松倉城を包囲し、松倉城の戦いとなっています。
この時は、長期の籠城になったばかりか、武田信玄も死去したため、1574年1月、上杉謙信の養子である長尾顕景の仲介を受けて、椎名康胤は降伏開城しました。
その後、椎名康胤の消息は不明ですが、ひとつの説としては、1576年、蓮沼城にて一揆勢と籠城していたところを、上杉勢の攻撃を受けて自害したともされます。
越中・椎名氏はこれにて滅亡したと言う事になりますが、上杉謙信は、一族の長尾景直(ながお-かげなお)に、椎名家の名跡を継がせて、椎名小四郎として小出城や今泉城を守らせました。
また、椎名康次と言う武将が、松倉城下にある常泉寺に入って出家し、松室文寿と称したと言われています。
なお、上杉勢の領地となると、河田長親が越中・松倉城に入り、神保長住らの攻撃を防いでいます。
1582年6月3日、魚津城が落城した直後に越中・松倉城も陥落したようですが、その際に、本能寺の変にて織田勢が撤退したことから、すぐに上杉勢のもとに戻りました。
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1583年には、須田満親が城主になっていましたが、佐々成政の攻撃を受けて降伏開城しています。
その後、鹿熊の城下町は、魚津へ移り、廃城になったと言われています。
富山では一番とも言える規模の山城で、本丸などには石垣なども残っています。
下記のように、本丸には、イワクラ信仰のような岩もありましたので、古代から信仰を集めた山だったのではないでしょうか?
本丸からの展望は良く、数百本の桜が植えられていることから、富山さくらの名所50選にも選ばれています。
毎年、5月下旬には、越中・松倉城、越中・升方城、越中・北山城にて「戦国のろし祭り」というイベントも開催されるようです。
越中・松倉城への交通アクセスですが、角川ダム脇にある道を進んで行くと、松倉城に入っていく山道があります。
そして、山上まで舗装された道路が続いています。
下記のところから、山道に入って行きます。
山道は舗装されていますので、走りやすいです。
ただし、カードレールはありませんし、住んでいる方もおられますので、生活道路でして、軽自動車の対向車と1回すれ違いました。
本丸の直下に駐車場がありますので、当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。
もともとは曲輪だったのでしょう。
駐車場から下記写真にあります、手すり付きの遊歩道を登って、左に行くと二の丸で、右に行くと本丸となり、歩いて登る事5分くらいでした。
登山道は、きちんと整備されていますので、とても歩きやすかったです。
ただし、このアクセス道路は、約3kmと、結構、長くて心細いです。
また、山上には朽ち果てたトイレしかありません。
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細かく散策するのであれば、トレッキングポールと、熊除け鈴、夏場は、虫除けもあると良いです。
水分補給にもご注意願います。
・庄ノ城(壇城) 桃井直常と石黒与三右衝門
・蓮沼城 遊佐慶親など越中・遊佐氏の本拠地
・越中・守山城(二上山城) 神保氏張による神保氏の復活
・越中・升方城 松倉城の前衛を守備する支城
・魚津城 上杉勢13人の武将が自刃した魚津城の戦い
・増山城 攻防が続いた続日本100名城で広大な富山の山城
・富山城 続日本100名城 神保長職と神保長住
・北陸の城跡訪問カーナビとして使えるオリジナル地図
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