陸奥・土沢城(つちざわ-じょう)は、釜石街道の宿場町でる岩手県花巻市東和町土沢にある平山城で標高170m、比高70mになります。
土沢城跡になる館山は、現在、館山公園として整備されています。
近くにある成島毘沙門堂や、アラハバキ信仰の丹内山神社などは、坂上田村麻呂の創建と伝わる歴史あるところです。
ところが、以外にも最初の築城としては古くないようですので、驚きました。
そのため、遺構も比較的良好な状態で残っているようです。
と言う事で、先にこの付近の古い城跡を説明させて頂きます。
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土沢(和賀郡十二鏑村大字十二鏑)のあたりは、古くから十二鏑・十二ヶ所と呼ばれていたとされ、土沢城跡か、近くに隣接する山野に、十二鏑館があったとも伝わっているようです。
しかし、十二鏑館(十二鏑城)の場所などは、特定できていません。
また、遠野の阿曽沼広長が失脚した際に出てくる武将である上野広吉の娘婿のひとりが、十二鏑弾正と称していたようです。
このように、十二鏑氏と言う武将もいたことは判明しています。
戦国時代には、陸奥・二子城の和賀氏が支配していたようで、家臣の小原氏の領地だったようです。
東和ICの南側にある安俵城(あひょう-じょう)の安俵氏は、小原氏の同族のようですが、ともに出自は不明です。
もしかしたら、付近にある国の重要文化財・旧小原家住宅(江戸時代?)は、ご子孫なのかも知れませんね。
奥州仕置の際に、和賀氏が所領没収となると、和賀氏四天王家とされる10代・小原忠秀(安俵玄蕃頭忠秀)も去りました。
このとき、代わりに派遣された南部家の中野修理直康(九戸政実の弟)は、安俵城に入りましたが1592年に廃城となっています。
1600年、関ヶ原の戦いの際に、元の陸奥・岩崎城主である和賀義忠の子とされる和賀忠親が、伊達政宗の後援を得て、岩崎一揆を起こします。
この頃、この付近は南部家の領地となっていましたが、和賀氏、稗貫氏の遺臣らは安俵城や、小田代肥前の田瀬城(田瀬館)を落としました。
また、伊達勢がどうやら浮牛城を改修開始したようで、その対抗策として、南部利直は急きょ、土沢城の築城を開始した模様です。
御本館、中館、西館、東館・大手桜丸・腰郭などによって構成され、城内中段に侍屋敷、その下に足軽屋敷、外側には町民屋敷を置いていました。
堀の水は稚部川から導水したと言います。
城の縄張りは南部家にて三戸城や盛岡城の縄張り(設計)を担当したとされる野田直盛(野田内匠頭直盛)1000石と伝わりますが、陸奥・土沢城主になった訳ではなさそうです。
また、どうやら、反乱の鎮圧後も、伊達政宗を警戒したのでしょうか、工事を続ける江戸幕府の許可がおりていたようで、1612年に陸奥・土沢城が完成したようです。
このとき、旧葛西氏家臣で、のち1591年から南部家に仕えた、もとの岩谷堂城主・新堀城主・江刺隆直(えさし-たかなお)が土沢城主になったとありますが、完成する前から場所としては重要拠点ですので、完成前から城主であったと推測されます。
先の1600年、岩崎一揆の際に攻撃された安俵城は、江刺氏の家臣である原体主膳が守備していました。
他に江刺氏の家臣としては、三ヶ尻加賀・高屋右近がいます。
ただ、浮牛城の江刺重恒(えさし-しげつね)もいますので、う~ん、江刺氏も分からないことが多く不明です。
江刺隆直と江刺重恒は、同一人物かも?しれません。
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なお、1647年に土沢の城下町で大火があり、このとき、土沢城の建造物もすべて焼失したとされます。
しかし、再建したようですので、依然として伊達家を監視する拠点だったもようです。
ところが1670年、江刺氏4代・江刺市左衛門隆真のときに、土沢城は廃城となりました。
ただし、代わりに麓には代官屋敷が設置されて、南部藩による統治を続けた模様です。
江刺家には、1620年に記録した城址の絵図が残されているそうです。
毒沢城も近くにありますので、セットでどうぞ。
・陸奥・岩崎城 和賀・稗貫一揆や岩崎一揆の舞台
・盛岡城 哀愁漂う東北の日本100名城 訪問攻略法
・毒沢城(毒沢館) 伊達政宗の側室になった勝女姫のふるさとか?
・二子城 和賀・稗貫一揆で落城する
・浮牛城(上口内城) 大名行列「浮牛城まつり」も開催
・岩谷堂城 江刺氏の本拠地
・丹内山神社 強力なパワーを発するアラハバキ神の巨岩
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