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盛岡城とは
陸奥・盛岡城(もりおか-じょう)は、岩手県盛岡市(陸奥・岩手郡)にある連郭式平山城です。
標高は143m、比高15mほどになっており、国の史跡に指定されているほか、日本100名城、日本の歴史公園100選、会津若松城、白河の小峰城と共に東北三名城にも選ばれています。
別名は、古くは不来方城(こずかた-じょう)があった場所を、戦国時代に大幅に拡張して盛岡城になったと考えられます。
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不来方城のはじまりから、ご紹介してみたいと存じます。
蝦夷の可能性がありますが、羅刹と呼ばれた鬼がいたそうです。
その鬼が悪さをすると言いますから、先住民の羅刹と対立していた縄文人?が、三ツ石神社の神様に祈願したところ、鬼は神様によって捕らえられたと言います。
まぁ、恐らくは、援軍に来た縄文人あたりが捕縛したのでしょう。
この時、羅刹に対して、2度と来ない証として、岩に手形を残したと言います。
これが「岩手」の名称の由来とされます。
そして、2度と来ては行けない方向と言う意味で、この地は「不来方」と呼ばれました。
現在の盛岡市中心部が「岩手郡仁王郷不来方」に相当します。
そして、古くから領主はいたと思いますが、詳細は不明です。
平安時代に、蝦夷の流れを汲む俘囚の清原武則(きよはらのたけのり)が、厨川柵主の安倍貞任を捕縛するのに貢献したとして、逆志方の領地を与えられたとあります。
この逆志方は、不来方なのではとする説もあるようです。
熊倉時代後期から室町時代には、高水寺城の斯波氏が支配していたと考えられます。
その後、1391年に福士政長が不来方城に入って「不来方殿」と呼ばれています。
福士政長は隠居すると、福士慶善淡路と称してすぐ近くの館に移ったため不来方城は、慶善館・淡路館とも言い、慶善館が盛岡城の前進とする場合もあります。
いずれにせよ、南部氏の勢力が伸びると福士氏も従いました。
また、戦国時代には九戸氏と親戚関係にあったことから、九戸政実の乱のあと、不来方城を明け渡しており、のち福士氏は八戸藩士になりました。
九戸政実の乱を豊臣勢と共に鎮圧した南部信直は、三戸城や九戸城より、もっと南の不来方を本拠にした方がよいと蒲生氏郷や浅野長政すすめられます。
こうして、福士彦三郎の不来方城を基礎にして、1592年から巨大な盛岡城の築城を開始しました。
まずは整地を行い、1598年にから南部利直の指揮のもと、兵学者・内堀伊豆が普請奉行として建物建造などに着手しています。
また、盛岡城の縄張り(設計)を担当したとされるのは、野田直盛(野田内匠頭直盛)と伝わります。
下記は本丸(天守台)です。
ただし、天守は築かれず、天守台に御三階櫓を建てて、代用したようですが、まぁ、事実上の天守と言っても良いのではないでしょうか?
しかし、その天守は落雷で焼失し、1676年になって南部重信が、赤瓦を使用した独立式層塔型3重3階の天守を建造しました。
県庁所在地の本城は、天守が復元されていることが多いですので、100名城の盛岡城も予算がつくと良いですね。
新しい観光の目玉にもなるでしょう。
今は、天守台に騎馬像「南部中尉銅像」の「跡」がありますが・・。
写真でもお分かりの通り、ここにきて、急に天気が悪くなってきました。
銅造の主は、南部利祥と言う42代当主ですが、日露戦争で戦死したため、銅像が建てられていました。
しかし、太平洋戦争の際に、金属供出されて、現在、台座だけが残されているとの事です。
築城を始めた頃は、まだ、南部氏は不来方城と呼んでいます。
ただ、度重なる洪水などの影響などで難工事となり、1615年になってようやく総石垣の城が、ほぼ完成しました。
下記写真ですが、とうとう、雪が降り出しました。
時期は3月末で、外気温は5℃くらいあるのですが、関東と違い粉雪が舞ってきました。(関東では外気温が3℃より低くならないと雪になりにくい)
高水寺城にあった建物も移築したと伝わりますが、最初の頃には廊下橋や、三層の天守もあったとそうです。
南部藩主の南部利直は、不来方(こずかた)と言う名称を「心悪しき文字」と嫌ったとされ、「森ヶ岡」に改名したあと最終的には「盛岡」が城下町の名として使われるようになりました。
由来としては、近くの永福寺の裏山が「森ヶ岡」と呼ばれたことから、盛岡になったとされます。
そうそう、上記写真の朱色の橋ですが、築城、当時は、廊下橋になっていたそうです。
復元されると良いですね。
更に洪水で建物が流されるなどの被害もあったため、実際に藩主が定住するようになったのは、1633年からで、南部重直の代になっていました。
以後は、南部氏の居城として幕末まで続きましたが、南部藩から次第に盛岡藩と呼ばれるようになりました。
盛岡城は北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵にあり、総構(そうがまえ)の城になっています。
主郭部は、南端の本丸から北へ二の丸、三の丸、下曲輪を配し、東に台所、本丸の南には淡路丸や腰曲輪がありました。
主郭部北端の下曲輪などの一部を除いて、盛岡産花崗岩(かこうがん)を用いた総石垣で築かれている素晴らしい城で、外郭は主郭部から北へ拡がり、外曲輪、遠曲輪があったようです。
現在は岩手公園として整備されており、隣接する「もりおか歴史文化館」では、盛岡城の復元模型なども展示されているとの事です。
彦御蔵(ひこおくら)は、江戸時代末期1749年に建てられた土蔵で、盛岡城の建物としては唯一現存する建築物となります。
あと、築城している際に、地面を掘っていたら出て来たと言う、烏帽子岩が見どころです。
上記の写真は裏から見た写真でして、下記が烏帽子のカタチだと分かる正面側です。
また、城内には、花巻出身の宮沢賢治の詩碑や、石川啄木の歌碑などが建てられています。
石川啄木の有名な歌碑「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心」があるのは二の丸跡になります。
春には、ブンゴウメ、シダレウメ、白梅など、梅が約1040本、4月上旬まで咲きます。
ソメイヨシノ、サトザクラ、エドヒガン、ハエベニザクラ、ヤマザクラなど、桜の木は約250本で、4月下旬から5月上旬のGWが見頃となり「盛岡さくらまつり」が開催されます。
5月には鶴ケ池にて藤棚、7月にはアジサイが満開になるとのことです。
下記は盛岡城の様子がよくわかる動画です。
雪が舞っていますが・・。
下記は盛岡城公園(岩手公園)の北側にある櫻山神社です。
櫻山神社(さくらやまじんじゃ)は、江戸時代の1749年、盛岡藩第8代藩主・南部利視が、盛岡城の淡路丸に神殿を建立したものです。
主祭神は、南部光行、南部信直、南部利直、南部利敬と、大名がそのまま神様として祭られています。
神社をお参りするころには、雪も止みました。
お参りしておいて良かった。(^-^)
烏帽子岩のすぐそばに行くためには、北側から、この櫻山神社の本殿右側から少し上がると行けます。
盛岡城への行き方
盛岡城の駐車場としては、もりおか歴史文化館の地下駐車場(有料)があります。
この盛岡城跡公園地下駐車場(岩手公園地下駐車場)は、朝7時~20時で、30分150円です。
他にも城の周りにはコインパーキングがいくつもありますので、他の駐車場でもOKです。
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電車の場合には、JR東北本線・東北新幹線の盛岡駅から約1.3km、徒歩で約17分くらいの距離です。
盛岡駅近くの佐々木自転車さんにて借りられる、レンタサイクル(貸自転車)が便利そうです。
日本100名城のスタンプは、もりおか歴史文化館と、プラザおでって2階観光文化情報プラザにあります。
盛岡城の見学所要時間ですが、ゆっくり見ますと60分といったところです。
24時間散策自由の公園になっています。
このあとは、三陸海岸方面に向かいました。
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