岩手県

高水寺城(陸奥・郡山城) 斯波詮直と忠節を貫いた岩清水義長

高水寺城(陸奥・郡山城)

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高水寺城(こうすいじ-じょう)は、別名を陸奥・郡山城(こおりやま-じょう)とも呼ぶ岩手県紫波郡紫波町ある平山城です。
標高は181m、比高は84mほどで、高水寺城・斯波氏(しわ-し)の本拠であったことから斯波館とも言います。

高水寺城の名前の由来は、高水寺城(陸奥・郡山城)から北西にある高水寺の境内の一部を、斯波氏が城柵として使用したことからとなります。
古い時代の屋敷は斯波御所とも呼ばれ、高水寺から更に北西に行った、国道4号沿いの古屋敷の辺りに古館があったようですので、詰の城として最初は使用していたのでしょう。


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最初の築城としては、南北朝時代の建武2年(1335年)に、斯波家長が築いたとされますが、よくわかっていません。
斯波家長(しば-いえなが)は、越前・若狭・越中の守護である斯波高経の長男です。
1335年に奥州管領となって、斯波館に下向したとも、下向はしなかったとも言いますが、そのときはまだ15歳だったようです。
斯波氏は足利尊氏に仕えていましたので、後醍醐天皇に味方し、陸奥・多賀城に本拠を移した北畠顕家に、睨みを効かす役割を担いました。
しかし、北畠顕家が足利尊氏討伐に京へ軍勢を向けたため、足利尊氏は京を追われて九州へ逃れる事態となっています。
その後、京は新田義貞楠木正成に任せて、北畠顕家が多賀城に戻る際に、斯波家長は鎌倉でその帰路を妨害しました。
この時、鎌倉にて杉本城の戦い(相模・杉本城)となりましたが、斯波家長は討死しています。(享年17)

高水寺城(陸奥・郡山城)

なお、実際に斯波氏が斯波郡を所領としたのは、もっと前の鎌倉時代で、足利泰氏の長男・足利家氏が陸奥の斯波郡(しわぐん)を与えられたと言います。
足利家氏は実際に斯波館に入ったとも、下向はしなかったともされますが、のちに本家である足利将軍家の執事・管領に就いて、足利家氏の系統は宗家から分かれて斯波氏を称するようになりました。
斯波氏は足利一門の筆頭の家柄であり、分家としては奥州探題にもなった大崎氏、羽州探題を世襲した最上氏がいますが、黒川氏、天童氏も一族です。

高水寺城

その後、一族の大崎氏が台頭してきますが。1435年、陸奥・二子城の和賀の大乱では、高水寺の斯波家が大崎氏など北奥の諸氏を指揮しました。
ただし、本家より大崎氏などの方が勢力を拡大しており、本家は斯波御所、高水寺御所として続いたようですが、あまり表舞台には出てきません。
分家は本家への忠義は厚かったようで、高水寺斯波家は一族に乗っ取られることなく、維持していたようです。

陸奥・郡山城

しかし、戦国時代に入ると、1492年、大崎教兼が志和郡の所領を得て、次男・斯波詮高(しば-あきたか)が1495年に高水寺城に入り、宗家の斯波詮重の養子となりました。
1514年、伊達稙宗が最上義定を長谷堂城にて破って最上氏を臣従させると、高水寺城の斯波詮高も屈しています。
斯波詮高は優秀な武将で、南部晴正が門屋城主・戸沢政安の勢力下であった石を攻略すると、雫石城に次男・斯波詮真(しば-あきざね)を入れるなどして勢力を拡大しています。

高水寺城

しかし、南部信直の代になると、1584年~1586年まで何度も雫石城が攻撃を受けて、雫石を失うと、その2年後に、雫石久詮は南部氏に降伏しています。

高水寺斯波氏における最後の当主は、斯波詮直(しば-あきなお)です。
1548年に斯波詮真の嫡男として生まれました。

高水寺城(陸奥・郡山城)

斯波詮直は、北上川を遊覧した際に、川底の赤石に陽が射し、紫色に輝く川波を見て、古代から「斯波郡」と書いていたものを「紫波郡」に改めたとされます。


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高水寺・斯波家の家臣としては、下記のような武将がいます。

雫石久詮
猪去久道
岩清水義長
細川長門守
稲藤大炊助
工藤茂道
太田主秀広
大萱生秀重
川村右近秀久(大萱生秀重次男)
江柄兵部少輔
川村秀久
江柄次昌(川村秀久子)
手代森秀親
中村作右衛門
栃内秀綱
簗田詮泰
星川左馬助
岩清水義教
清水善七郎
乙部義説
大釜政幸
多田忠綱
達曽部清綱(多田忠綱子)
氏家義方
長岡詮尹
玉井庄兵衛
宮手英清
飯岡祐貫
中島安将
小屋敷義長

1582年、南部晴政が死去して南部一族で家督争いが起こると、奪われていた岩手郡を取り返す一面も見せました。
しかし、政務にはあまり関心が無かったようで、重臣の岩清水義長、細川長門守や稲藤大炊助らが諫言しましたが、聞き入れなかったと言います。


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また、1586年、有力重臣の高田吉兵衛(中野康実)が、南部家に出奔しました。
そのため、南部氏は攻勢に出て、雫石城の雫石久詮と猪去義方を攻略します。
更には、1588年、岩清水城(盛岡城)にて、岩清水義教や簗田詮泰らが南部信直の家臣・中野康実に内通しました。
斯波詮直は謀反人を撃つべく、岩清水義教の兄・岩清水義長に討伐を命じます。
岩清水義長は約300にて出陣し、約50ほどの弟・岩清水義教らを攻撃しましたが、岩清水館(盛岡城)は三方を深田に囲まれた要害の地であったため敗れます。
そのため、今度は、斯波詮直が自ら300を率いて出陣しましたが、このとき、すでに従わない家臣もいたと言います、
なんとか岩清水館を攻略し、煙山館、日戸内膳の見前館を落としますが、家臣らがついてこず、追撃を断念しています。

高水寺城(陸奥・郡山城)

この様相を効いた南部信直は、自ら軍勢を差し向けたため、日戸内膳・岩清水義教・煙山主殿は、館を奪回しました。
南部勢の大軍を前に、斯波詮直はすでに求心力を失っており、助けよう高水寺城に集まったのは、岩清水義長、家老・細川長門守、稲藤大炊助など僅か50だったと言います。
最後まで主君に忠義を尽くした岩清水義長を始め、工藤茂道・永井延明らが討死し、高水寺斯波氏は滅亡しました。
斯波詮直の最後は諸説ありますが、稲藤大炊左衛門・草刈藤助・桜町越前・日詰某らと城を脱出し、稲荷別当成就院を経由して、旧臣である山王海左衛門太郎の世話を受けて潜伏したとも、南部藩士になったとも諸説あり、わかりません。

高水寺城

中野康実(中野修理康実)が高水寺城主となると、名称を郡山城と改称しました。
南部利直が築城した盛岡城が水害で壊れた際には、高水寺城に一時本拠を移すなどしたようです。
江戸時代の1667年に城代制が廃止されて、高水寺城(陸奥・郡山城)は廃城となり、建物などは盛岡城に移築されたと言われています。

高水寺城(陸奥・郡山城)

城跡は現在、紫波町立城山公園として整備されていますが、遺構はあまり残っていないようです。


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高水寺城への交通アクセス・行き方ですが、JR東北本線の紫波中央駅からタクシーで約10分の距離です。
志波中央駅から歩くと約30分ほどかかります。
駐車場が多すぎるくらい、公園内にいくつか無料駐車場が完備されています。
車で山の上まで上がっていける道路も、対面通行で安心ですし、見学はとても便利です。
駐車場の場所は、当方のオリジナル東北地図にてわかるようにしてあります。
道なりに進んで一番奥にある駐車場が良いでしょう。
見学所要時間は、くまなく見ますと60分、本丸程度でしたら20分ほどです。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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