和歌山県

紀伊・田辺城 (紀伊・湊城)  田辺藩の政庁が築かれた

紀伊・田辺城

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紀伊・田辺城(たなべ-じょう)は、和歌山県田辺市にある平城で、紀伊・湊城、錦水城(きんすい-じょう)とも呼びます。
戦国時代まで、田辺を治めた領主の城は、紀伊・泊城(泊山城)でした。
1585年、豊臣秀吉の紀州征伐の際に、杉若無心が紀伊・泊城を攻めた功績で泊城には杉若無心が入りました。
しかし、1590年、八王子砦跡に新たに紀伊・上野山城を築いて移ると城下町の整備も行っています。
ちなみに、上野山城があった場所はよくわかっていませんが、八立稲荷神社があるあたりではないかと推測されているようです。
杉若無心は19000石にもなりましたが、1600年、関ケ原の戦いで石田三成に協力したため、所領没収となりました。


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和歌山城に37万石で浅野幸長が入ると、田辺には一族の浅野氏重が、甲斐・勝山城(郡内の勝山城)から3万石で移ってきました。
年代が不明ですが、浅野氏重(あさの-うじさだ)は、港の近くに州崎城を築城しています。
しかし、1605年、波浪(南海トラフ地震か?)にて流失したようで、1606年に、改めて会津川東河口に新築したのが、紀伊・湊城と言う事になります。

和歌山藩の2代藩主・浅野長晟が、広島城に移封となった際に、浅野氏重(浅野氏定・浅野良重)は新しい領地を巡って対立したようで、暗殺されています。

その後、紀州徳川家が和歌山城に入り、重臣の安藤直次(あんどう-なおつぐ)が田辺の領主となりました。
ただし、掛川城から安藤直次が田辺に入ると城がなく、民家に宿泊したとあります。
恐らくは、1615年(元和元年)の一国一城令で、紀伊・湊城は破却されていた考えてよいでしょう。

紀伊・田辺城

こうして、安藤直次が、紀伊・湊城の跡地に再興したのが紀伊・田辺城と言う事になります。
なお、紀伊・田辺城は陣屋の構えで、天守や櫓(やぐら)は築かれませんでした。
ここで疑問に感じたのは、江戸幕府がよく築城許可を出したなと言う事です。
しかし、調べてみましたら、安藤直次は幕府の老中であり、徳川家康の名にて徳川頼宣の付家老として38000石であったため紀伊・田辺藩として立藩したようです。
ただし、正式な藩としては認められておらず、安藤氏は主に和歌山城下の屋敷にて補佐しました。

幕末の記録では、本丸には平屋造の表御殿、奥御殿、対面所など数十棟があったようです。
二の丸には家老や用人、留役、奉行などの詰所などがあり、南側の二の丸との間に土蔵、城門は東向きの長さ八間の楼門で、裏門が二の丸側にあって、水門は会津川側でした。
また、アメリカ船などが現れたため、扇ヶ浜台場など海防上の理由から大改修の工事が始まりましたが、城の工事は途中で中止になった模様です。


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紀伊・田辺城跡の多くは消滅してますが、会津川河口に架かる田辺大橋のたもとに、紀伊・田辺城の唯一の遺構、水門があり、その一角だけ錦水公園として整備されています。

紀伊・田辺城

紀伊・田辺城への交通アクセス・行き方ですが、JR紀勢本線の紀伊田辺駅から徒歩20分です。
駐車場が無いのが難点でして、道路に短い時間だけ停車し数枚の写真撮影に留めました。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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