青森県

大光寺城~滝本重行と津軽の中心にあり歴史に翻弄された城跡

大光寺城




陸奥・大光寺城の始まり

陸奥・大光寺城(だいこうじじょう)は、青森県平川市の小高い丘の上にあった平城で、大光寺新城とも呼びます。

正直なところ、大光寺城はほとんど遺構も失われていると言う事で、最初の訪問リストに加えておらず、時間があまったため写真撮影に赴いたものの、津軽為信の記事にて挿し絵的な写真使用に留めようと思っておりました。
しかし、実際に大光寺城がある平川市にクルマを進めますと、古くからある街であることがわかりまして、少し、大光寺城の歴史に触れてみましたら、かなりの昔より重要な役割を果たしていた城・館であったことがわかり、急きょ、単独での記事にさせて頂きました。
大光寺城に携わっておられる皆様や地元の方には、お詫びしなくてはなりません。





さて、大光寺城は、歴史も深いため、大光寺古館、大光寺五日市館、そして大光寺城(大光寺新城)と、歴史の変化に伴い、館・城も場所が微妙に違っていたようです。
そのため、このすべての大光寺城に関して、記載してみたいと存じます。

大光寺付近を治めた初見としては、鎌倉時代の建保5年(1217年)に、相模・曾我氏の一族である平広忠が、平賀郡岩館の地頭代として入って津軽・曾我氏を称したのが始まりとされます。
貞応元年(1222年)には曾我五郎二郎が入っています。
鎌倉時代末期には、曽我太郎助光の系統である嫡流は大光寺氏を称しており、本家と分家(岩館城の曽我小二郎惟重の系統)に分かれていました。
そして、本家の大光寺家は北朝に味方し、岩館の分家は南朝方と、南部氏などと同様に同族で争うことになります。

大光寺古館

正慶2年・元弘3年(1333年)曾我道性によって築かれたのが大光寺古館となります。
大光寺古館の場所は推定となっていますが、大光寺地区北にある観音堂、保食神社がある付近とされています。

11世紀初期に曽我道性が築城したと伝わります。

1333年に鎌倉幕府が滅亡して、執権・北条家一族の安達高景、名越時如らが、御内人の曾我道性を頼って、1333年11月に津軽・大光寺楯に入ったとあります。
そして、陸奧国司・北畠顕家の命にて、岩楯城・曾我光高や、田舎館の成田泰次・工藤貞行ら朝廷側の軍勢に攻められて、曾我道性は大光寺城から石川城(石川楯)、持寄城へと逃れました。(大光寺の戦い)
1334年には、大光寺曾我氏の入道道性が捕らえられ、その子・曽我重経は討死して本家の大光寺曾我氏は滅亡し、名越時如、安達高景も降伏しました。
ただし、南部氏に加えられたとも言われています。
しかし、曽我光高は1335年に、足利尊氏後醍醐天皇の建武政権に叛旗を翻すと同調したため、南朝方の根城・南部氏との抗争となり、岩舘曽我氏は没落しました。
現在、大光寺古館の遺構は失われていますが、その後、登場するのが大光寺五日市館です。

大光寺五日市館

大光寺五日市館は1338年に十三湊が大津波に襲われ、藤崎城の安東秀光(安東次郎左衛門秀光)が、大光寺にやってきて五日市館に築城したとの説があり、以後、大光寺氏を称しました。
その後、大崎城の奥州・葛西氏の分流である葛西頼清が大光寺氏の娘を娶って婿養子と入ったようで、応永年間(1394年~1428年)に葛西頼清が大光寺城主(大光寺古館)となっています。

大光寺城(大光寺新城)

永享年間(1429年~1441年)になると、聖寿寺館の南部守行が大光寺城を攻めて、以後は南部氏の支配下となりました。(諸説あり)

大光寺城

南部氏は津軽郡代として南部信愛(南部遠江守信愛)を大光寺城主としています。
南部信愛(なんぶ-のぶちか)の子・南部左衛門の亡きあとは、後見役であった滝本重行(滝本播磨守重行)が城代となりました。
滝本播磨重行の弟・滝本刑部左衛が、大光寺小館主になっています。

滝本重行

滝本重行(たきもと-しげゆき)が任された大光寺城は城下家数90軒、石高1万6000石を誇っており、田舎館城、浅瀬石城、新屋城、尾崎城、高畑城、沖館城、乳井城、杉館、三ツ目内城を支配している津軽三大名の一つになっていました。
しかし、勢力が大きいがゆえに争いも絶えません。

永禄8年(1565年)6月5日には、大光寺城で一番強い後藤五郎左衛門に、乳井城主・乳井福王寺の別当である乳井玄蕃を襲撃させ、荒田(平川市荒田地区)引座川畔にて主従25人を殺害し、高畑城を接収しました。

天正2年(1574年)8月13日、大浦城主・大浦為信はが4000の大軍で大光寺城を攻撃していますが、乳井玄蕃の子・乳井建清もこの大光寺城攻めなどで活躍しています。
この時、滝本重行は、舘田林からの通報を受けて700の精鋭にて、大浦氏の本陣へ突撃したため、不意を突かれた大浦為信は一度敗走しました。
しかし、天正4年(1576年)1月1日、今度は正月という不意を突かれ、奮戦むなしく滝本重行は小湊口から南部家へ逃れています。
この時、妻が「今はとて立別るるもなれきにし真木の柱に我等わするな」と城内の柱に刻んで去ったと言う逸話が残っています。

大光寺城跡

その後、天正7年(1579年)7月に、滝本重行は北畠顕則らと共に1000にて大光寺城奪還を狙い、まずは乳井城・乳井茶臼館・乳井古館を制圧しました。
そのあとの沖館城は攻めきれずいたところ、六羽川の戦いとなって敗退し、比内から再び南部へと逃れました。

天正10年(1582年)、津軽家に臣従していた乳井館主・乳井建清が大光寺城主となっています。





慶長4年(1599年)、津軽為信の娘婿・津軽建広(津軽左馬助建広)が城主として入りましたが、翌年には去りました。
慶長12年(1607年)、津軽為信の死後、津軽建広は津軽家の後継者に津軽為信の孫・津軽熊千代を推しますが失敗すると言うお家騒動の際に、津軽建広らが大光寺城に立て篭もりましたが鎮圧されています。
慶長15年(1610年)、弘前城の築城のため大光寺城は破却されて、建材が運ばれました。
なお、弘前城の亀甲門(北門)(下記写真)は、大光寺城の追手門を移築したもので、本丸御殿の欄間は弘前・専光院に使われたとされます。

弘前城・北門(亀甲門)

また、弘前市新町・誓願寺の鶴亀門も大光寺城のものを移築したと伝わります。

大光寺城も明確な遺構は残されていません。
大光寺コミュニテイセンターと言う公民館のところに石碑があり、駐車場も利用できます。
アクセス・
行き方・交通アクセスですが、弘南鉄道の弘南線「平賀駅」より徒歩約20分の距離です。
場所は当方のオリジナル地図にて明記もさせて頂いております。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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