出羽・赤尾津城(あかおづ-じょう)は、秋田県由利本荘市岩城下蛇田の高城山にあり、標高は170m、比高は150mと堅固な山城です。
別名は、天鷺城、高館、高城山城、高城城、高城と言います。
山頂部が本郭で、その周りに二の丸、三の丸があるそうです。
このサイトに記載しているすべてにおいてですが、古いことには諸説あることを前提にご覧頂けますと幸いです。
古くは天鷺山と呼ばれ、飛鳥時代の659年頃には、阿倍比羅夫が蝦夷討伐を行ったとあります。
その後、天鷺郷を支配した天鷺速男(あまさぎ-はやお)でした。
麓には、その豪族の名から取った歴史テーマパーク、史跡保存伝承の里・天鷺村もあります。
しかし、801年頃に、征夷大将軍・坂上田村麻呂の蝦夷討伐にて滅亡したとされます。
と言う事は、天鷺速男は蝦夷(先住民)だった可能性も高いのではと存じますが、この人物についてこれ以上、詳しいことは不明です。
スポンサーリンク
その後、平泉の奥州藤原氏の勢力が及んでいたようで、藤原秀衡の子・藤原国衡に従っていた由利維友(由利維安、由利八郎維友)の所領になっていたようです。
平安時代から鎌倉時代へ移る時期である1185年、由利維安(由利維友)が、天神山を本拠としていた真坂次郎(真坂正覚次郎)に襲撃され、天鷺城に逃れたとあります。
1187年、根代館主・由利維晟(由利太夫維晟)が、その真坂次郎に勝利して天鷺城に入りますが、根代館に戻ると、由利維知(由利弾正維知)が亀田(天鷺城)に入りました。
1190年、由利維友の子・由利維平が家督を継いでいたようですが、大河兼任の乱の際に、小鹿島のて毛左田(ももさだ)※秋田県秋田市大森山付近か?で討死し、由利維久が継ぎました。
しかし、1213年、鎌倉で発生した和田合戦の際に連座し、所領没収になったとされます。
このとき、信州の大井氏が由利にはいったようです。
ただし、由利維久の子孫は滝沢氏と称し、由利十二頭のひとりとして幕末まで続きます。
また、1233年、由利維久は許されて西目に出羽・浜館を築いて復活し、のち鳴沢館に移っていました。
なお、1324年、根代館の由利政春が栗山館主・鳥海宗盛(鳥海弥三郎宗盛)に滅ぼされると、生き残りの日向入道雪海と由利長範丸が天鷺城にて籠城したようです。
しかし、1326年、鳥海宗盛によって平定されています。
ところが、由利維久の曾孫・由利維貫は信濃に逃れていたようで、1339年、小笠原朝保(小笠原甲斐守朝保)、小笠原光重(小笠原大井五郎光重)、小笠原光貞(小笠原伯耆守光貞)らと由利郡に戻ったとあります。
そして、小笠原光貞が天鷺城の所領を持ちますが、堅固な天鷺城はあまり使われなかったようで、大野築館を居館にしたようです。
諸説ありますが、1450年頃に赤尾津氏と改名しました。
そして、1467年、赤尾津孫八が赤尾津城に入ったとあり、以後、本拠としたようです。
戦国時代になると、1579年に、赤尾津二郎が羽川金剛丸ら由利郡の打越・岩谷・石沢・潟保ら諸氏と共に大曲城を攻撃し、1574年に打ち取られた赤尾津左衛門の仇を取っています。
1588年には、赤尾津二郎や弟・羽川正九郎ら由利十二頭は共同で、矢島城主・矢島満安を攻めて西馬音内城に追いやりました。
そして、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には参陣して所領安堵を受けていますが、4500石と由利衆の中では一番大きい勢力でした。
1600年、関ケ原の戦いで、由利衆の多くは様子見をしたため、由利郡は山形城主・最上義光に与えられます。
そして、1603年、最上家の重臣・楯岡満茂が、出羽・湯沢城から赤尾津城に45000石で入りました。
その後、1612年に、本荘城が完成すると、赤尾津城は廃城になったようです。
5万5000石で、宇都宮城から本多正純が移封と決定しましたが拒否したため、翌々年、本多正純は久保田藩の佐竹氏預かりとなりました。
その後、信濃中村より岩城吉隆が20000石で入ると、北の麓に亀田城を築いています。
スポンサーリンク
交通アクセスですが、道は狭いものの、山頂近くにある高城山城址公園の無料駐車場が利用可能です。
ただし、秋田空港に向かう直前、秋田出張の最後の城攻めでしたが、下記の通り、道路が「通行止」となっていました。
そのため、麓の亀田城と天鷺村の訪問のみとなりました。
・5分でわかる坂上田村麻呂とは
・出羽・亀田城(亀田陣屋) 真田幸村の子にも所縁ある亀田藩
・出羽・湯沢城 小野寺経道の本拠地で佐竹南家が整備した山城
・西馬音内城 小野寺茂道(西馬音内茂道)の苦難
・本荘城 楯岡満茂が整備した由利の一大拠点
・史跡保存伝承の里・天鷺村
・東北の城めぐりにも便利なオリジナル地図
この記事へのコメントはありません。