摂津の三田城(さんだ-じょう)は、兵庫県三田市にある平山城となります。
別名は、車瀬城、三田陣屋とも言います。
南北朝時代に、赤松一族の有馬則景が、車瀬に居館を造ったのが始まりともされますが、諸説ありかなりよく分かりません。
三田にある金心寺(こんしん-じ)は。古くから歴代天皇の信仰を受けており、戦国時代初期には20万石を誇るなど、三田の中心として君臨していたようです。
また、伊丹城主となった荒木村重は、1574年に妻の妹を、摂津・三田城主の有馬国秀(有間出羽守)に嫁がせ、臣従させた模様です。
しかし、摂津一国の支配を任された荒木家と対立し、1575年に有馬国秀は有岡城に呼び出しました。
有馬国秀は、謀反を疑われたため、身の潔白を証明するため、自ら自刃して果てたと言い、摂津・有馬氏は滅亡しました。
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そのあと、荒木村重は、寵臣であった安都部弥市郎を「荒木平太夫」と改名させ、2万石で摂津・三田城(車瀬城)に入れました。
そして、金心寺の周辺を城下町として整備したとも言われています。
この荒木平太夫(荒木重堅・木下重堅)は、荒木家において主に奉行として活躍していたようです。
1579年、荒木村重は織田信長を裏切り、有岡城の戦いとなっていましたが、夜陰に紛れて城から逃れて、尼崎城(大物城)に逃れると、荒木重堅は摂津・三田城を明け渡して織田家に投降したともされます。
もちろん、よくわかっていない部分が多く諸説あります。
また、経緯は不明ながら許されており、のち羽柴秀吉の家臣に加わっており、1582年の本能寺の変のあとには、因幡・若桜城主に抜擢されています。
代わって、摂津・三田城に入ったのは、山崎片家(やまざき-かたいえ)とされます。
この山崎片家は、もともと六角義賢・六角義治の家臣だったようで、本能寺の変では明智光秀に味方し、佐和山城などを占拠したようです。
しかし、明智光秀が討たれたと知ると、羽柴秀吉に従い、近江・山崎城の本領を安堵されました。
そして、1582年の冬に、摂津・三田城に23000石で移されたと言う事になり、しばらく織田信雄の与力となっていました。
なお、三田城を回収した際には、家臣の車瀬政右衛門が縄張り(設計)をしたため「車瀬城」と呼ばれるようになったと言う事らしいです。
三田城には天守もあったと言われますが、このとき、建造されたとも考えられています。
1591年に、山崎片家が死去すると嫡男の山崎家盛(やまざき-いえもり)が家督を継ぎました。
その山崎家盛は、1600年、石田三成が挙兵したことを、徳川家康にいち早く伝える使者を出した大名としても知られます。
しかし、大阪周辺は西軍に味方したものが多く、山崎家盛は大垣城に入ると石田三成に面会し、その後、細川幽斎が守っていた丹後・田辺城の包囲に加わり、田辺城の戦いに参加しました。
そのため、戦後、山崎氏は改易されそうになりましたが、正室・天球院の兄である池田輝政の尽力により、石田三成挙兵の報告をした功績が認められて、因幡・若桜城3万石に加増転封となっています。
次に三田城主となったのは、東軍に属していた淡河城主・有馬則頼(ありま-のりより)となります。
この有馬則頼も、摂津・有馬氏の一族で、もとは播磨・満田城主で、豊臣秀吉に御伽衆として仕えていました。
関ケ原の戦いでは徳川家康に味方したことから1601年に2万石で摂津・三田城に入りました。
1602年に死去すると、福知山城主となっていた次男・有馬豊氏の領地に加えられましたが、1620年に久留米藩に21万石で移封となり、その後、出羽・上山城から松平重直が三田城主となっています。
しかし、1633年に豊後・龍王城へ移封となり、九鬼久隆が志摩・鳥羽城から3万6000石で入りました。
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九鬼家は、前領主・松平氏の居館である「御館」を中心とした三田陣屋を改修して 旧三田城を取り込み、拡張して堀も廻らしました。
また、大池では九鬼水軍としての技術を忘れないため、舟を浮かべて訓練に励んだと伝わります。
そして、九鬼氏の治世は続き明治維新を迎えています。
本丸跡は、三田小学校になっており、三田城址の石碑と縄張り図の案内板があります。
また、二の丸跡は県立有馬高校で、遺構としては本丸と二の丸の水濠、二の丸東側の空堀が残っています。
また、金心寺の山門として下屋敷表黒門が移築されています。
交通アクセスですが、電車の場合、JR西日本・福知山線の三田駅、神戸電鉄・三田線の三田駅または三田本町駅下車で、いずれも徒歩15分となります。
なお、有料駐車場として利用したコインパーキングなどがわかるように、当方のオリジナル地図でも示しています。
その駐車場の向かいに、資料館にもなっている旧九鬼家住宅があります。
入館無料の旧九鬼家住宅の開館は朝10時~16時までです。
定休日は毎週月曜と年末年始休館ですが、季節により開館日が代わる場合があります。
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