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丹後・弓木城(ゆみのき-じょう)は、京都府与謝野町岩滝にある山城です。
標高は59m、比高55mで、別名としては稲富城、忌木城、弓ノ木城、一色城とも呼ばれますが、天橋立も近いです。
最初の築城としては、鎌倉時代末期?に伊賀から移った山田氏とされます。
弓木城を居城とすると地名から稲富氏(いなどめ)と称しました。
稲富直時は、丹後・一色家の家臣となっています。
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1508年に生まれた稲富祐秀(いなどめ-すけひで、稲富直時)は、1554年に鉄砲の名人・佐々木義国から鉄砲術を学ぶと、その孫とされる稲富祐直は更に独自の工夫を行い「稲富流砲術」として知られるようになりました。
ただし、この稲富祐秀が2代目とされますので、それが正しいと、鎌倉から続いているとは到底思えません。
稲富祐直
稲富祐直(いなとみ-すけなお)は、1552年生まれで、建部山城主・一色義道に仕えていました。
主君・一色義道は、足利義昭から丹後国を安堵されていましたが、その後織田信長と対立し、1578年から明智光秀らの侵攻を許していました。
そして、1579年に建部山城が落城し、山名豊国を頼ろうと一度は丹後・中山城まで逃れた一色義道でしたが、家臣・沼田幸兵衛の裏切りにあい自害します。
そのため、稲富祐直は、家督を継承した一色義定と残党らに、弓木城を明け渡し、一色氏の本拠地が弓木城になりました。
細川勢が攻めて来た際に、稲富祐直は甲冑を2重に着用して鉄砲を避けようとしたことから「二領具足」の異名が瞬く間に両軍に広まったと言います。
一色義定と一色義清
この一色義定(いっしき-よしさだ)は、剛勇の武将だったことから、兵力に勝っていた細川藤孝も弓木城を攻略できず、1579年、織田家は細川藤孝の娘・伊也を嫁がせて政略結婚で和議を結び、丹後を分割統治しました。
そして、2万石の弓木城(忌木城)は丹後国守護・一色氏の新たな本拠地として、整備され、城下町も発展したようです。
1582年の武田攻め(甲州征伐)に、一色満信は細川藤孝と共に出陣もしています。
ところが、明智光秀が本能寺の変にて織田信長を討ちます。
このとき、宮津城の細川藤孝(細川幽斎)は、明智光秀の要請を断って味方しませんでした。
しかし、一色義定(一色義俊・一色義有・一色満信とも)は明智光秀に従う姿勢を明らかにし、宮津城を攻撃しようとしたようで、水軍にて宮津湾犬堂沖(西宮津公園の沖)まで押し出した模様です。
そのため、山崎の戦いのあと、羽柴秀吉は、一色義定に疑いの目をかけたこともあり、細川忠興は一色義定を宮津城に呼び寄せました。
これは罠(わな)で、一色義定は、待ち受けていた松井康之、米田求政ら細川家の手勢100名に城内で誅殺されたと言います。
もっとも、召集を受けた際に、一色義俊は家老衆の延利城主・大江越中守と石丸城主・杉山出羽守に意見を聞いたと言います。
大江越中守は行くことを反対しましたが、杉山出羽守は、このまま自滅の途をたどるより、宮津城に行って細川藤孝を討取るべきだと主張したともあります。
しかし、一色氏の目論見は外れて、返り討ちにあったと言う事なのかも知れません。
この一大事に、吉原城主だった叔父・一色義清が弓木城に入って家督を継ぎましたが、すぐさま弓木城は包囲されます。
一色勢は宮津城付近まで進撃し、下宮津の海岸の敵陣に、果敢にも突撃をすると言う壮絶な最後にて一色家は滅亡しました。
下記が宮津にある一色義清自刃跡となります。
ちなみに、正室・伊也姫は、弓木城が降伏した際に細川家に戻っています。
また、細川氏は、周辺で抵抗を続けた一色氏の城、丹後・下岡城や、吉原山城なども、細川幽斎の次男・細川興元などが攻撃して、次々に陥落させ、丹後を平定しました。
話を戻しますが、鉄砲の名手・稲富祐直(稲富直家・稲富一夢理斎)は、弓木城から脱出に成功したようで、のち羽柴秀吉の仲介を受けると細川忠興に仕えました。
そして、弓木城主として返り咲き、細川家の師範(砲術指南役)として活躍して行きます。
やがて、豊臣秀吉が天下を取ると、1597年、朝鮮攻めにて、稲富祐直は細川勢として渡海しており、蔚山倭城で活躍しました。
1600年、関ヶ原の戦いの際には、大坂・玉造にある細川屋敷に詰めており、細川忠興の妻・細川ガラシャ夫人を警護するひとりになっていました。
この時、石田三成は500を送って細川屋敷を包囲して、細川ガラシャを人質に取ろうとすると、留守居役の家老・小笠原少斎、稲富祐直・河喜多石見らは、奥方を刺して我らも自害しようと協議したと言います。
これに、細川ガラシャも同意したため、小笠原少斎は奥方と同室するのは失礼であるとして、次室の隣部屋から薙刀を振りかざして、細川ガラシャの首を落として介錯したと言います。
また、河喜多石見は屋敷に火を放ち、小笠原少斎と共に自害しましたが、その介錯をした田辺六左衛門も燃え盛る屋敷に飛び込んで殉死しています。
ところが、稲富祐直は、裏門から抜け出してひとり逃亡したとされますが、これは、包囲した敵の中には、弟子がたくさんいたため、逃げるようにと懇願されたとも言います。
しかし、細川忠興は、1人逃げた稲富祐直に対して「卑怯者」と激怒し、奉公構えの処置も取ったとされますが、これを徳川家康が稲富流砲術の腕と知識を買っており、細川忠興をなだめたとされます。
こうして助命された稲富祐直は、徳川幕府の鉄砲方となり、国友鍛冶の組織化などにも尽力しました。
その後、清洲城主・松平忠吉や、名古屋城に入った徳川義直に仕えますが、稲富祐直から鉄砲の指南・奥義を受けた大名としては、徳川家康だけでなく、徳川秀忠、伊達政宗、浅野幸長らと多いです。
稲富祐直は、慶長16年(1611年)に駿府城下にて死去ました。
弟・稲富直重の子・稲富正直が旗本として徳川秀忠に仕えています。
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なお、関ケ原のあと、丹後には京極氏が入りましたが、弓木城は廃城になった模様です。
現在、城山公園として整備されており、水無月神社の境内にもなっていますが、切り立った崖は健在で見事です。
主郭の南東側には竪堀状の遺構もありますし、土塁も確認できます。
夏場でも見学可能なほど、遊歩道も整備もされています。
ただし、階段はすべりやすいので、注意してください。
なお、道路の向かいにある岩滝小学校も城跡で、遺構は消滅していますが、どちらかと言うと、この小学校の部分を守るような城の防御となっていたようです。
すなわち、弓木城はかなり広かったと言う事ですね。
麓の玉田寺からでも城跡に登れます。
交通アクセスですが、無料駐車場がある場所は当方のオリジナル地図にてわかるようにしてあります。
見学所要時間は20分といったところです。
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