長野県

海ノ口城~武田晴信が初陣にて300を率いて落とした山城

海ノ口城

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海ノ口城とは

海ノ口城(うんのくち-じょう)は長野県南佐久郡南牧村海ノ口にある山城です。
標高は1357m、比高は220mの山城で、別名は鳥井城と言います。

最初の築城は不明ですが、戦国時代の1536年末、甲斐の武田信虎が8000にて佐久方面へ侵攻しています。
武田信虎は、1535年に諏訪氏と和睦し、1536年には、駿河の今川義元と甲駿同盟を結び佐久への進出を狙っていたのです。

武田税は1536年11月21日に甲府を発つと、迎え撃つ佐久・平賀城主の平賀成頼(平賀源心入道成頼、大井成頼)と井上清忠らは海ノ口城に2000にて籠城しました。
そのため、武田信虎は海ノ口城を攻撃しました。


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この時の武田勢は、加藤虎景、原昌俊、板垣信方、板垣信憲、内藤虎資、青沼昌世、飯田虎春、飯田有信、教来石信保、教来石信房、教来石信頼、小沢昌光、青木信種、青木信立、山寺信明、青木満懸、青木信定、柳沢貞興、柳沢信房、柳沢信景、落合昌貞、青木昌基、曲淵吉景、 上原虎満、上原昌辰、上原昌成、上原昌貞、上原盛昌、日向昌時、日向虎忠、日向秀泰、日向虎顕、広瀬景昌、鯰江頼母、甘利虎泰、甘利信益、曽雌虎忠、工藤虎豊、工藤祐元、工藤昌英、工藤祐久、長坂虎房、 今井信甫、今井信良、今井虎甫、今井虎意、今井貞恵、今井信昌、矢戸虎守、江草信恒、津金胤時など蒼々たる軍勢です。

しかし、大雪と堅固であることから落とせず冬の到来もあり36日間、12月26日に甲府に帰還しています。

この時、初陣で同行していたのが、武田晴信(武田信玄)で、まだ若干16歳でした。
武田晴信は、殿(しんがり)を申し出ると許され兵300を預かります。

平賀源心(平賀玄信)は、武田勢が撤退する、早々に城兵の多くのを領地に返し、海ノ口城に残っていた80名ほどは勝ったと酒宴を開いたと言います。
甲府に戻っていなかった武田晴信は、海ノ口城を奇襲したため、いとも簡単に落城し平賀源心は討死しました。

海ノ口城

平賀源心の墓(首塚)が、若神子城近くの若神子に現存します。

平賀源心の墓~海ノ口城の戦い

ただし、この海ノ口城の戦いや、平賀源心(平賀玄信)と言う武将じたい架空・創作であるとする説もあり、確かだったのかはよく分かっていません。
初陣伝説にケチをつける気はありませんが、武田信虎の家臣・小幡盛景と教来石信房(のちの馬場信房)が、若き武田晴信に手柄を譲ったと言う言い伝えもあります。

いずれにせよ、海ノ口城を手に入れた武田家は、以後、佐久方面の攻略にて、海ノ口城は佐久甲州街道の中継地・兵站基地となりました。
相木に通じる大芝峠の抑えでもあります。


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武田晴信は1543年に佐久の大井氏を攻め、1546年には内山城、上田原の戦い村上義清に敗北したあとも、1548年には佐久衆の叛乱を鎮圧し、1550年、戸石城の戦いに敗れたあとも、なんども海ノ口を陣所にしています。

交通アクセス

海ノ口城へのアクセスですが、JR小海線の佐久海ノ口駅から約500mぐらいに登山口があります。
海ノ口駅から古くと、山頂まで徒歩50分くらいとなります。  
道路の先には駐車スペースもありますので、訪問しやすい山城です。

平賀源心の墓~海ノ口城の戦い
獅子吼城(江草城) 武田信虎の甲斐統一で最後まで抵抗した山城
相木城と相木昌朝(相木昌友)~相木市兵衛や相木頼房も
龍岡城(龍岡五稜郭) 日本に二つしかない五稜郭の一つ
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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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