名称 : 丸亀城、亀山城、蓬莱城
場所 : 讃岐国
形態 : 渦郭式平山城
天守 : 独立式層塔型3重3階(現存)
遺構 : 現存天守・門・石垣・土塁・堀
築城年 : 室町時代初期
指定文化財 : 国重要文化財・国史跡
丸亀城の歴史
丸亀城(まるがめじょう)は香川県丸亀市にある渦郭式平山城で、別名としては、讃岐・亀山城(かめやまじょう)、蓬莱城(ほうらいじょう)とも呼ばれます。
国の史跡や日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれていますが、丸亀城の天守は、江戸時代の1660年に完成した現存12天守のひとつとなる、大変貴重なものです。
丸亀城の歴史ですが、最初の築城は、室町時代初期(1532年~1555年頃)、 管領・細川頼之の重臣である奈良元安が亀山に砦を築いたのが始まりとされています。
奈良元安は最初、宇多津城(聖通寺城)を築城しましたが、跡を継いだ奈良備前守元信の時には三好氏の勢力に押されます。
また、土佐を統一した長曽我部元親が、阿波・讃岐へ進攻を開始すると、奈良元政のときに阿波へ逃れて勝瑞城の十河存保に属しました。
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1585年、羽柴秀吉の四国攻めにより、長宗我部元親が降伏すると、仙石秀久が讃岐一国を与えられます。
※十河城2万石は十河存保。
山崎家治久は、この時、聖通寺城(聖通寺山城、宇多津城)または、高松城を本拠にしたと考えられています。
しかし、戸次川の戦いにて大敗北した仙石秀久は改易(所領没収)のうえ高野山追放となり、豊富政権三中老のひとりである生駒親正が、讃岐に入り高松城を本拠としました。
生駒親正は、1595年に讃岐17万1800石まで出世しており、1597年から丸亀の亀山の砦を大改修したのです。
丸亀城は、亀山と呼ばれる標高66.5mを中心に、周りをほぼ四角形の内堀で囲んだ構造です。
生駒一正とは
約6年の歳月をかけて、1602年に丸亀城が完成すると、生駒親正の長男・生駒一正(いこま-かずまさ)が、丸亀城に入りました。
生駒一正は、1555年生まれで、父と共に豊臣秀吉の多くの合戦に参戦し、朝鮮攻めにも出陣しています。
1600年、関ケ原の戦いの際には、父・生駒親正の代わりに、徳川家康に従っており、関ヶ原の戦いでも戦功を挙げました。
このとき、父・生駒親正は大阪にいたため、石田三成に協力し、家臣を丹波・田辺城攻めなどに派遣していたため、関ケ原本戦前に高野山に入っていたのと、子の東軍での活躍により、所領安堵となっています。
こうした高松藩が成立した訳ですが、1615年、一国一城令により丸亀城は廃城となりました。
ただし、高松藩主・生駒正俊は、丸亀城の要所要所を樹木で覆って隠し、尚且つ厳しく立入禁止にしたようで、城の破却をしなかったようです。
しかし、第4代藩主・生駒高俊となり、寛永17年(1640年)にお家騒動(生駒騒動)が勃発して改易され、生駒氏は出羽・矢島藩に転封となりました。
その後、富岡城主・山崎家治が丸亀に入ります。
山崎家治とは
山崎家治(やまざき-いえはる)は、2万3000石にて、摂津・三田城主を務めた山崎家盛(やまざき-いえもり)の長男です。
この父・山崎家盛は、石田三成が挙兵した際に、いち早く、徳川家康に伝令を出した武将としても知られます。
しかし、大坂にいたため、関ケ原の際には、石田三成に協力姿勢を示しますが、消極的であったため、戦後、因幡若桜3万石に加増転封となっていました。
山崎家治は大坂冬の陣にて、弟・山崎久家を亡くしますが、大坂夏の陣では池田利隆の与力として、首を6つ挙げる大活躍をしました。
そして、1617年、備中・成羽3万5000石に加増転封となりますが、今度は領地にて新田開発を行うなど、良政を敷いたことが評価されたほか、豊臣家滅亡後の大阪城再建でも築城能力を発揮します。
また、1619年に福島正則が改易された際には、備後・三原城を守衛しました。
島原の乱のあとには、荒れた天草の立て直しを任され、1639年には肥後天草(富岡城)4万石に加増転封となり、乱後の天草を立て直しました。
これらの功績により、1641年9月、讃岐丸亀5万3000石(丸亀藩)に大幅加増・転封となったのです。
丸亀に入った最初は、館すらなく、寺院にて山崎家治は寝泊まりしたようですが、江戸幕府の許可を得ると、1642年から丸亀城の改修を開始し、城下町も整備しました。
このとき、幕府からは築城費用として白銀300貫を賜っており、また参勤交代が免除されています。
丸亀城は渦郭式平山城と、珍しい縄張り(設計)となっています。
この渦郭式と言うのは、本丸を隅っこ配置して、周囲の2方向、あるいは3方向を他の曲輪で囲むと言う「渦」を巻いたような配置で、本丸まで侵入するのには、グルッと廻って行かなくてはならない構造になっており、かなり凝った造りです。
そのため、丸亀城の改修も年月が掛かりました。
最初に設計した山崎家治は、城の完成を見ることなく、1648年に死去。(享年55)
その後、丸亀藩3代藩主・山崎治頼(やまざき-はるより)が、1657年に僅か8歳で早世すると、無嗣断絶で改易・所領没収となり、丸亀には近江源氏で同族の京極高和が播磨龍野から6万石で入封しました。
この京極高和(きょうごく-たかかず)のとき、1660年に丸亀城の天守閣が完成したのです。
四国に残る木造天守では一番古いです。
ただし、丸亀城の改修は続いており、京極高和は、城の裏口にある海側の搦め手門を大手門に変更しています。
そして、京極高豊の代である1673年、実に32年の歳月を要した大改修が完了しました。
高さ日本一の石垣と亀山城ではうたっていますが、これは、石垣ひとつの高さが日本一と言う事ではなく、麓から山頂部まで連なる4段の石垣の、それそれの高さを合計すると60mにもなり、総石垣としては日本一高いと言う事になります。
ちなみに、石垣単体で高い「高石垣」は大阪城や伊賀・上野城の約30mで、丸亀城は22mとなります。
この立派な石垣も1673年の最後の頃に完成したとみられています。
三ノ丸・二ノ丸・本丸は総石垣で三ノ丸の高石垣は圧巻の規模です。
ただ、2018年7月の集中豪雨で幅30mに渡って、石垣が崩落したとの情報もあります。
北西隅の石垣は、屏風折れの高石垣となっています。
下記は三の丸ですね。
せっせと登って行きますと、月見櫓跡もありました。
下記は本丸の入口です。
明治に入ると、1876~1877年頃に、丸亀城の櫓や多聞など取り壊されましたが、丸亀城の天守や大手門は残りました。
大手門では、現在、平成の「時太鼓」として、毎日・正午に太鼓が打ち鳴らされています。
下記は旧藩主居館の表門となる玄関先御門・御殿表門です。
亀山公園は無料で散策でき、本丸まで無料で入れますが、天守の内部を見学する場合のみ有料となります。
天守の中は階段が急ですので、女性はズボンが無難です。
天守の営業時間は午前9時~午後4時30分、大手一の門は午前10時~午後3時30分となっています。
100名城のスタンプは天守にあります。
観光所要時間は40分~90分といったところでしょうか?
舗装はされていますが、坂を登って行きますので、靴はスニーカー以上が最適です。
本丸からの展望は360℃です。
石垣が素晴らしいのも良く分かりますが、瀬戸内海には瀬戸大橋も見えました。
大手門付近も見下ろせました。
このように樹木がほとんど邪魔していないので、よく見渡せます。
讃岐富士(飯野山)も見えましたよ。
下記は、かぶと岩です。
資料館の駐車場脇となる、山の麓にあります。
夏場は熱中症対策が必須です。
もっと、ゆっくり見学したかったのですが、ワタクシは、ここで熱中症になり、善通寺をカットしました。
アクセス
丸亀城へのアクセス・行き方ですが、JR丸亀駅からは歩いて約10分となります。
無料駐車場は、丸亀城内資料館南側に50台で、4月1日~9月30日は午前6時~午後7時、10月1日~3月31日は午前7時~午後5時に開いてます。
他には、市民ひろば駐車場が午前8時30分~午後5時まで22台があります。
下記の地図ポイント地点が、無料駐車場への入口となります。
うちわが有名なところで、売店では工芸品の販売も行っていました。
・生駒親正~豊臣秀吉の家臣として高松城主へと出世
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