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大給城の解説~巨岩が残る中世山城の名城

城址碑

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三河・大給城とは

大給城(おぎゅう-じょう)は標高207mの山頂部に築かれ、十八松平家の一つで、江戸時代には譜代大名4家の他、多くの旗本分家を輩出している大給松平家の本拠地だった山城です。
後に大給松平家は桜井松平家と共に諸大夫の筆頭の位置を保ち、従五位下の大名の中で最初に将軍に拝謁する事が決まっていました。
また、領地替えの多かった江戸時代の中でも大給松平家の流れを汲む大名は、西尾藩(大給宗家:西尾城:愛知県)、府内藩(府内城:大分県)、岩村藩(岩村城:岐阜県)、奥殿藩(奥殿陣屋:愛知県/龍岡城:長野県)と、いずれも江戸中期以降は領地替えもなく、100年以上各地の要所に領地を固定されたまま幕末を迎えています。
西尾城丑寅櫓
〇復元された西尾城丑寅櫓

歴史

松平家の初代にあたる松平親氏(まつだいら-ちかうじ)は松平村の庄屋である松平太郎左衛門信重(まつだいら-たろうざえもん-のぶしげ)の婿となり、応永22年(1415年)には近隣の林添村を支配する薮田源吾(やぶた-げんご)を討ち取り、松平城を築いて本拠地とします。
その後、大平地区では柴田左京を追い払い、二重栗の二重栗内記を大林城下で討ち取ると、麻生城も攻略。
これを見た田口の中根、秦梨の粟生、奥岩戸の岩戸大膳、柳田の山内などの諸豪族は全て降伏し、中山十七名は松平氏の配下に属する事になりました。
松平城
〇松平城

松平親氏の跡を継いだ松平泰親(まつだいら-やすちか)は後に松平宗家3代目を継ぐ松平信光(まつだいら-のぶみつ)と共に西へと領地を伸ばして行き、応永28年(1421年)矢作川西岸の岩津城を攻略し、その後、松平氏宗家は岩津城を本拠として各地へ勢力を伸ばして行く事になります。

松平氏が勢力拡大をしていく中、松平城と岩津城の間に位置する大給城の長坂新左衛門(ながさか-しんざえもん)は姻戚関係にある保久城(ほっきゅう-じょう)の山下重久(やました-しげひさ)、巴川西岸にある岩倉城(いわくら-じょう)の岩倉源兵衛(いわくら-げんべえ)らに共闘を持ち掛け、長禄4年(1461年)巴川と郡界川が合流する地点に布陣して松平軍と戦闘に入りますが、山下重久らは討ち取られてしまい連合軍は敗北を喫します。


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戦いに勝利した松平勢は余勢を駆って大給城を攻撃し落城させると、松平信光の三男松平親忠(まつだいら-ちかただ)に与えて勢力の安定を図ります。
岩津城
〇岩津城

大給城を確保した松平氏は矢作川西岸から西三河南部にかけて勢力を伸ばして行き、文明3年(1471年)に安城城を攻略すると、大給城にいた松平親忠を安城城へ移し、大給城は松平親忠の次男(※注1)である松平乗元(まつだいら-のりもと)が入り、大給松平家が成立します。

※注1
松平乗元の出自には諸説があり、大久保忠教(おおくぼ-ただのり:通称大久保彦左衛門)が記した『三河物語』には、松平信光は岩津城を惣領を松平親長(まつだいら-ちかなが)に譲り、大給城を次男の松平乗元に譲った事が記されていますが、後に編纂された『改正三河後風土記』には松平親忠の次男として松平源次郎乗元の記載があります。
また、異説として『姓氏家系大辞典』には「もと荻生氏にして、物部弓削蓮季定、頼朝の時加茂郡荻生庄の地頭となる。十一世孫荻生季統、松平信光と戦いて敗れる。孫乗元、親忠の婿となる」と言う記載がある上、生年も松平乗元が永享5年(1433年)前後、松平親忠の生年は永享10年(1438年)前後と言う説もあることから、松平乗元は松平氏の出自ではなく松平信光の娘婿になり松平姓を名乗った事になりますが、ここでは一般的な松平氏の家系図に従い松平親忠の次男として記載していきます。
松平乗元の墓
〇大給城内にある松平乗元の墓

永正年間(1504年~1521年)に入る頃、遠江の今川氏親(いまがわ-うじちか)は叔父の伊勢宗瑞(いせ-そうずい:北条早雲)と共に駿河の地を安定させ、西の三河への進出を図り、永正3年(1506年)には伊勢宗瑞を将として三河に攻め寄せます。
松平氏の本拠地である岩津城は落城寸前まで激しい攻撃を受けますが、安城城にいた松平親忠は、大給城の松平乗正(まつだいら-のりまさ:松平乗元の嫡子)を先鋒に今川軍を急襲し、伊勢宗瑞の本陣へ肉薄する猛攻を見せたため、今川軍は撤退を余儀なくされました。

この戦いでは宗家とされていた岩津松平氏は一族が滅亡する程、数多くの人物が討ち死にしており、今川軍を追い払った安城松平家が宗家の地位を受け継ぐ事になっていきます。
この頃、松平乗正は大規模な城の改修を行っており、現在も見る事のできる竪堀や石垣、土塁等の遺構はこの頃の物と推定されています。
堀切
〇堀切

松平乗正の跡を継いだ大給松平家3代目にあたる松平乗勝(まつだいら-のりかつ)は、宗家7代目の松平清康(まつだいら-きよやす)の養女を妻に迎え、4代目となる松平親乗(まつだいら-ちかのり)を儲けますが29歳の若さで早世します。
余談になりますが、松平乗勝の妻は隨念院として知られており、後には徳川家康の乳母として養育を一手に引き受け、幼少であった竹千代(徳川家康の幼名)の代わりに数多くの文書を作成して発給するなど、松平家雌伏の時代になくてはならない人物でした。

松平親乗は武勇に優れ、享禄3年(1530年)宗家の松平清康(まつだいら-きよやす)に従い宇利城攻めに参陣して功を挙げますが、織田・今川間の勢力争いの中で、松平一族の中でも織田・今川に別れ同族間で抗争を繰り広げていきます。
天文12年(1543年)頃、松平始祖の地で松平郷松平氏が在住している松平城を焼き討ちしており、弘治2年(1556年)には今川家から反旗を翻した奥平家が立て籠もる日近城・雨山城を巡る戦いでは、瀧脇松平家の跡継ぎにあたる松平正乗(まつだいら-まさのり)を討ち取り、その余勢を駆って瀧脇城も攻略して、瀧脇松平家当主の松平乗清(まつだいら-のりきよ:初代)、松平乗遠(まつだいら-のりとお:2代目)父子を敗死させます。
瀧脇松平家墓所
〇瀧脇松平家墓所(瀧脇陣屋)

天正3年(1575年)松平乗遠の次男、松平乗高(まつだいら-のりたか)は兵を挙げ、親子3代の仇となる大給城に攻めかかります。
隙を突かれた松平親乗は大給城を捨てて織田氏の元へ敗走する事となりました。

永禄3年(1560年)桶狭間の戦い今川義元が討ち死にすると、松平一門は今川家から離反した徳川家康の元へと集まって行きますが、松平親乗はすぐに麾下に入らずに今川氏真に与する動きを見せていたようで「二度岡崎へ逆心して駿河方に成、後に帰参候」と記されています。

松平親乗の跡を継いだ松平真乗(まつだいら-さねのり)の代になると徳川家康に従い、本拠の大給城に加えて細川城を与えられて細川城を中心に軍兵を集め、遠江遠征では掛川城を守備し、その後も姉川の戦い三方ヶ原の戦いにも参戦。
上杉謙信(うえすぎ-けんしん)と徳川家康が交渉を持った際には、徳川方の窓口となるなど文武に渡り功を挙げた後、天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に従い上野国那波1万石を得た時に、大給城は廃城となりました。
細川城
〇細川城

交通アクセスと登城

縄張図
〇縄張図

推奨ルート:
※公共交通機関での訪問は名古屋鉄道三河線豊田市駅から、とよたおいでんバス下山・豊田大沼行きに乗り換え、松平中学校前バス停下車、徒歩約30分程度で到着しますが、本数が少ないため、自家用車でも訪問をお勧めします。

自家用車での訪問する場合、国道301号線沿いに案内看板が出ており、城の南側にある登城口すぐ脇の道路沿いに駐車スペースが設けられています。
登城口
〇登城口

大給城は現在は国指定史跡として綺麗に整備されており、岩が多く露出した山頂部を利用して巨石に石積などを利用した曲輪や土塁をが設けられ、北端にある枡形虎口に面して石塁や高石垣、竪堀を備えています。
虎口
〇虎口

主郭の西側にある石塁に沿って南側に進むと虎口が開けており、大手東側の大堀切には石積を伴う土橋が架かり、櫓台を備える虎口を二ヶ所通って曲輪に入る構造になっています。
櫓台からの展望
〇櫓台からの眺望

また、北へ降ると水の手曲輪の方に行くルートがありますが、ここは土塁と竪堀によって遮断されています。
大給城最大の見所は北尾根に設けられた「水の手曲輪」と呼ばれる部分で、二段の砂防ダムのような石垣による防塁が築かれています。
水の手曲輪
〇水の手曲輪

その他関連施設等

〇瀧脇陣屋
豊田市滝脇町西洞
松平郷から南へ3km程に位置し、岡崎へ抜ける松平往還と呼ばれる街道沿いにあった陣屋です。
現在は看板が建てられているのみとなっています。


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〇細川城
岡崎市細川町字御前田
室町初期に足利氏一族が配されて城館を築き細川氏を名乗りました。
この地から各地の守護となった細川氏は、戦国時代細川藤孝(ほそかわ-ふじたか)・細川忠興(ほそかわ-ただおき)父子によって肥後の大名の地位を確かな物としました。
現在は細川氏の発祥地として碑が立てられており、末裔にあたる79代総理の細川護熙氏も立ち寄っています。

(寄稿)だい

三河・山中城の解説~徳川家康三河一向一揆で九死に一生を得る/鳩ヶ窟の伝説
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だい

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愛知県在住の会社員です。
休日には県内の城巡りをしており、愛知県内にある1,300以上ある城館を全て制覇する事が当面の目標。
モットーは「どんなマイナーな土地にも歴史はある!」
愛知県出身の有名武将は数多く存在しますが、それ以上にマイナーな武将や城も多数存在しています。
そんなマイナーな武将やお城を歴史好きの皆様にご紹介できるような記事を書いて行きたいと思います。

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