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武蔵・引田城(志村館)
武蔵・引田城 (ひくたじょう) は、東京都あきる野市引田にある崖端城で、あえて言うのであれば別名は志村館ともあるが武蔵・引田館のほうがあっているかも知れない。
最初の築城は不明だが、平山氏の一族の居城だったともされる。
その場合、西党の一族と言うのが正しいだろう。
近くの武蔵・二宮城には西党の二宮氏、武蔵・小川城には西党の小川氏、武蔵・戸倉城には西党の小宮氏、八王子の川口氏館も西党の川口氏とこの付近は西党の一族が散らばっている。
平山氏は西党の中でも一番有名であるが、本拠の平山氏館は少し離れている。
志村景元
戦国時代の後期には志村景元(志村肥前守景元)が武蔵・引田城主(志村館主)であった。
この志村景元(しむら かげもと)は武田勝頼の家臣であり、長篠の戦いの際に討死して山県昌景の首を敵から奪い返した志村貞盈と同じ甲斐・志村氏の一族のようだ。
志村景元は甲斐国都留郡鶴川で生まれたとされ、武田滅亡後に小田原城の北条氏に仕官したのか?とも推測される。
ただし、引田村の日吉社に1589年に奉納された絵馬に「武州多西郡引田村當領主日奉之朝臣平山右衛門大夫」とあるようなので引田村は平山右衛門大夫の領地だったようなので、もしかしたら、志村景元は平山右衛門大夫の客将だったのかも知れない。
檜原城主としては平山氏重がいるが平山右衛門大夫なのか?は確認が取れない。
ただし、天正16年(1588年)に八王子城の北条氏照は「この度の御弓矢に就いて、当郷(多摩郡)にあるほどの男はみな、先年の例の通り、檜原谷の平山右衛門大夫の所に集まって働け。他郷へ逃げた者は死罪とする。また、檜原において普請をせよ。」と命じている。
この「平山右衛門大夫」と言う名は、鎌倉時代にその名を馳せた平山氏のご先祖である平山季重(ひらやま すえしげ)の事なので、当主が代々その名を継いだと考えると、戦国時代には平山氏重が引田郷も領していた可能性がある。
なお、引田・八雲神社には1589年に、桧原城主である平山新左衛門尉氏重の家臣・志村肥前守景元が当地の領主であり、尾張国海東郡にあった津島牛頭天王社(愛知の津島神社)を勧請して再興したある。
となると、やはり、志村景元(志村肥前守景元)は平山氏の家来になったのか客将、それとも代官になったのかどれかであろうと推測できる。
また、引田城の殿様は馬上の姿がとても美しかったという言い伝えが残っている。
1590年、小田原攻めの際に八王子城にて志村将監なる武将が討死している。
この志村将監は、志村将監景光ともあが、武蔵・志村氏の可能性がある。
なお、確認はできないが、引田城の志村肥前守景元も八王子城の戦いにて自刃したとする場合もあるようだ。
檜原城も落城して平山氏重らは命を落とした。
更に小田原の相模・下堀城(下堀方形館)には武田旧臣とされる志村佐善が北条氏から領地を与えられていたので、同じ甲斐・志村氏の一族と考えられる。
江戸時代には武田旧臣を中心に八王子千人同心が構成されたが、千人頭9家のひとつに志村氏(270石)が見られるが、この志村氏は山県昌景の首を持ち帰った志村貞盈と子の志村貞精になる。
交通アクセス
武蔵・引田城(志村館)への行き方であるが、電車の場合武蔵引田駅から約1.2km、徒歩20分くらいの距離。
私有地のため当然立ち入ることはできず遺構なども確認できない。
場所は当方のオリジナル地図にてポイントしている。
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