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武蔵・亀井城の解説~柿生の亀井重清屋敷跡?「亀井重清」(亀井六郎)とは「小島佐渡守」とは

武蔵・亀井城

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武蔵・亀井城とは

武蔵・亀井城(かめい-じょう)は、神奈川県川崎市麻生区上麻生7丁目にある平山城です。
新編武蔵国風土記稿によると上麻生村に「小字亀井 亀井と云人居住せしより、かくよべりともいへり」とあるそうで「亀井城と呼ぶ」としているようです。
今回は崖の上にある月読神社を訪問させて頂きました。
月読神社は、武蔵・亀井城の一角であったとされる訳です。

武蔵・亀井城

そして、月読神社の縁起によると戦国時代の天文三年(1534年)の領主は小島佐渡守であり、応仁戦乱の苦悩にあえぐ領民のため天下泰平・五穀豊穣を祈願して「亀井城の卯の方に社殿を建立した」とあります。
武蔵・亀井城は東側にある谷にあったのかな?とも考えていたのですが「卯の方」と言う事はすなわち東の方角と言うことになります。
そうなると、亀井城の東が月読神社と言う事になりますので、柿生の月読神社(月讀神社)の脇になる高い位置に屋敷を構えていたと考えられ、その場合、防御性もあった戦国時代の城跡と言えるでしょう。
ただし、亀井城の場所としては推定となってしまいます。

小島佐渡守

さて小島佐渡守に関してですが、小島高治(小島佐渡守高治)と言う武将の名が見られます。
しかし、兄・小島玄蕃貞治が病弱だったと言う事で、家督を弟・小島高治に譲って下麻生にて隠居したそうで、鬼門に常安寺を開基したともあります。
この場合、柿生の領主は小島佐渡守源左衛門高治であり、1514年没したともあります。
小島高治の室(妻)は、慧性院妙香日芳(1519年没)とも。
その後、常安寺は焼失したため1544年に再建されたとあり、小島家の墓所も残っている?ともされます。

ただし、1559年頃に作成された「小田原衆所領役帳」では小島氏の名はなく、麻生は北条氏の家臣・布施蔵人佑(ふせくらんどのすけ)が82貫500文の知行となっているため、小島氏の支配と変わっていたようだ。
この布施蔵人佑は、平塚の布施氏館主である布施康則(布施佐渡守康則)の一族と考えられますが、御馬廻衆のため小田原城にいたと考えられ柿生には居を構えていなかったようですので、もしかしたら小島氏が代官的な立場になっていたのかも?知れません。
王禅寺付近は吉垣三十郎が領しており1590年、豊臣勢と小さな合戦があったと言う記録もあります。

1590年4月、小田原攻めをしている豊臣秀吉が、都筑郡麻生郷(川崎市麻生区)周辺を領していた小島家に送った書状が現存する。
麻生郷以外に橘樹郡小田村・稲毛郷など河崎六か村(川崎区)作延郷(高津区)長尾村(多摩区)平土橋村(宮前区)の代表者に送った書状もあるが、小島氏にあてた朱印状では都筑郡麻生郷の9つの村(王禅寺村・古沢村・黒金の郷・石川の郷・三輪の郷・荏田の郷・片平の郷・大棚の郷・万福寺村)と広範囲にわたり「軍勢軍乙人に乱暴狼藉の事」(軍勢は一般人に乱暴してはいけない)「放火の事」(放火してはだめ)「対地下人百姓、非分之儀申懸事」(地元の人や農民に道理に合わないことをしない)という3ヶ条を徹底するよう求め、破った際には厳罰にすると言っている。

なお、この戦国時代の小島氏は、町田の殿ノ城や青木屋敷(青木二郎屋敷)の青木氏の出自が丹党と考えられ、丹党には小島氏もいたことから同じ丹党からの一族が小島氏とも?考えられます。
そうなると、小島氏は名家ですので豊臣秀吉が禁制を出してもおかしくないです。

亀井重清

なんでそもそも「亀井」と呼ばれた城なのでしょうか?
と言う事でよく調べてみますと、平安時代末期に亀井六郎と言う武将の名が見受けられることがわかりました。
亀井六郎(亀井六郎重清)が上麻生・月読神社のそばに「亀井城」を築城したとする伝承もあるようで、亀井氏は紀伊国亀井が発祥となります。
枡形城の案内板にも亀井城の名があり、尾根伝いで連絡がとれていたともされます。
ただし、鎌倉初期の頃に高い場所を屋敷にすると考えにくいため、恐らく亀井六郎屋敷は麓の低いところ、交通のため鶴見川の近くにあったと推測致します。


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この亀井重清(亀井六郎重清)はもともと紀州・鈴木氏だったようで、熊野神社の御師や熊野の修験者・武士たちを支えていました。
そして、源義経が幼い頃に熊野の鈴木屋敷を訪れたことがあるようで、その交流から源義経の郎党に加わっていたようです。
亀井六郎重清(もとは鈴木姓)は紀伊国の豪族・藤白鈴木氏の一族とされ、兄の鈴木重家と共に源義経の家来となっていました。
また亀井重清(かめい しげきよ)は佐々木秀義の6男ともされるため、近江源氏佐々木氏が出自とする説もありますが信憑性には乏しいと考えます。
このような経緯もあり、柿生には鈴木さんも多いようです。

なお、大国魂神社(六所社・東京都府中市)に源頼朝の名代が参賀した際に、乗馬していた馬が倒れたので、弁慶が急いで麻生・亀井の館から大栗毛の馬を取り寄せたと言いますが、その際に亀井六郎に対して借りた証文を書いたと言う伝承もあります。

また、同じ源義経の郎党である熊井太郎忠基(熊井忠基・熊井太郎)は、鶴見川で行き来できる神奈川県横浜市都筑区川和町の川和城付近の領主となっていたようです。
更に、鶴川駅近くの元木山城(大傘館)にも、源義経に従った熊野(紀州・田辺)から神蔵重信(神蔵甚左衛門重信)が城主になったともあります。
荏田城の江田広基(江田源三)も源義経の郎党ですので、この付近一帯に固まっていたとも言えます。
このように源義経が源頼朝し合流したあと鎌倉幕府から短期間とはいえ、義経四天王のひとりである亀井重清(亀井六郎重清)も亀井城付近の領主になったことは充分に考えらます。
鎌倉幕府からと記載しましたが、渋谷氏小山田氏の領地だったも考えられますので、渋谷重国が佐々木秀義を助けたように在地の領主から所領を分け与えられたとも推測できます。

亀井重清は、1189年、源義経が最後を遂げた奥州・衣川の戦いで奮戦しましたが、兄と共に自害して果てました。

戦国時代には子孫と考えられる亀井氏が尼子経久の側近となり鈴垂城 (鈴垂山城)を与えられており、亀井秀綱などが筆頭家老となっています。
しかし、毛利元就の台頭によって殺害され没落すると、玉造温泉・玉造要害山城主である湯永綱の長男が婿養子となって亀井茲矩(かめい-これのり)を輩出しました。


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以上、亀井六郎に関しても諸説ありますので、上記が正しいと申し上げている訳ではありません。
誤解のないようにお願い申し上げます。

交通アクセス

武蔵・亀井城(月読神社)への行き方・交通アクセスですが、丘の上にあるため歩いていくと大変です。
月読神社に徒歩で向かう場合には、南側から参道が伸びており108段ある階段を登ると言います。
クルマの場合には、山上がだいぶ平らになっていて、月読神社の入口脇に未舗装の駐車場がありました。
常時、何台か止まっている駐車場でして神社の駐車場なのか?、月極として貸しているのか?、よくわからないのですが駐車禁止との記載も確認できなかったため、2分間だけの短時間止めさせて頂き、簡単に写真撮影致しました。
止めて良いのかわかりませんが、駐車場の場所は当方のオリジナル地図にてポイントしています。
自己責任でお願いします。

前述の川和城などとセットでどうぞ。

元木山城(大傘館)をできる限り詳しく解説~町田・鶴川の城跡
川和城の解説~源義経郎党である熊井太郎忠基(熊井忠基・熊井太郎)の発祥地
武蔵・沢山城(三輪城) 荻野氏の居城か?
荏田城 なかなか歴史ある横浜の城跡
源義経とは~腰越状と腰越の満福寺や首塚・白旗神社や平泉義経堂も
鈴木重家と小森御前 鈴木山重染寺跡
史跡めぐりにも便利なオリジナル関東地図


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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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