島根県

鈴垂城 (鈴垂山城) 亀井秀綱の居城

鈴垂城 (鈴垂山城)




鈴垂城(すずたれ-じょう)は、島根県松江市美保関町森山にある平山城(海城)で、鈴垂山城とも書きます。
標高は48m、境水道(中江瀬戸)の脇にあるため、比高も48mとなります。
築城に関しては不明ですが、戦国時代には、尼子氏の家臣・亀井永綱の子である亀井安綱(亀井武蔵守安綱)が城主と伝わります。
境水道を守る城は、他に、権現山城の小川勝久(小川石衛門勝久)、横田山城の秋上伊織之介がいます。

亀井安綱の子・亀井秀綱(かめい-ひでつな)は、永正5年(1508年)に、尼子経久大内義興の上洛に従った際にも随行しています。
また、永正8年(1511年)には、船岡山の戦いに参戦するなど、尼子家では亀井安綱の頃より、筆頭家老格だったと考えられます。





毛利元就が当主になり、尼子氏から離反する動きを見せると、大永4年(1524年)、毛利元就の弟・相合元綱らを使って、クーデターを画策しましたが、失敗し、結果的に、毛利元就が尼子氏に従わなくなったとされます。
また、所領加増が認められず、尼子経久の子・塩冶興久が不満を持った際にも、説得に失敗しました。
鰐淵寺なども興久支持に回り、弟の亀井利綱も塩冶興久に味方するなど、尼子家は2分します。
1532年、この時の争いでは、弟の亀井利綱が討死したとあります。

永禄9年(1566年)、亀井秀綱(亀井能登守秀綱)は、毛利家の伯耆・尾高城主である杉原盛重(杉原播磨守盛重)によって謀殺されます。
なんでも、仲が良かった、境水道の対岸にある、鳥取県側の砂丘「弓ヶ浜半島」の庄屋から「大漁だったので酒盛りでも」と誘われて、亀井秀綱は40名の家来と、2歳になったばかりの清若丸(きよわかまる)、乳母などと、出向いたと言います。
忍者でも放っていたのでしょう。
この情報を得た、杉原盛重は、酒盛りしていた庄屋の家を急襲しました。
清若丸は、家来の小磯双四郎(こいそまたしろう)が連れて、大同寺まで逃げましたが、追っ手にあい、自害して果てたとあります。
そのあと、鈴垂城も落城したと言う事になりますが、この話は、弓ヶ浜にある伯耆・高岡城の武良内匠頭が、荒隈城にいた毛利元就に内通して、呼び出し、その間に、杉原盛重が2000騎にて、鈴垂山城を落としたともあります。

鈴垂城

永禄12年(1569年)、尼子勝久山中鹿之助らの尼子再興軍が、忠山城から出雲・真山城(出雲・新山城)へ拠点を移すと、月山富田城を攻撃しますが失敗します。
その後、永禄13年(1570年)に、布部山の戦いにて尼子再興軍が敗走すると、尼子勝久らは出雲・真山城から鈴垂城に移りました。
そしして、桂島から出雲を脱出すると、京へ上って豊臣秀吉の力を借りることになります。

なお、亀井秀綱の娘は、山中幸盛の正室と、亀井茲矩の正室になっています。
亀井茲矩(かめい-これのり)は、玉造温泉・玉造要害山城主である湯永綱の長男で、尼子氏滅亡後、放浪中に、尼子勝久と山中幸盛に出会い、尼子再興軍に参加したものとみられます。
そして、山中鹿之助が養女としていた、亀井秀綱の次女・時子を娶り、亀井家の名跡を継ぎました。
その後、亀井茲矩は、羽柴秀吉の元で活躍し、因幡・鹿野城主3万8000石にて、江戸時代には鹿野藩主となりました。





鈴垂城 (鈴垂山城) への交通アクセス・行き方ですが、クルマを止めるところが無いようです。
また、すぐ、脇には、航空自衛隊のレーダー基地である高尾山分屯基地のふもと庁舎があり、城跡もあれているようですので、登城は控え、対岸からの撮影に留めました。

亀井茲矩の解説 残党を保護し大名へと成功した尼子家臣
相合元綱 今義経と謳われた毛利元就の異母弟
玉造要害山城 (玉造城) 湯氏の本拠地
横田山城の解説 秋上久家(秋上宗信)
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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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