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三河・石橋城での謀反~石橋繁昌ら43名が討死した奥平氏の争い

三河・石橋城

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三河・石橋城

三河・石橋城(いしばし-じょう)は、愛知県新城市作手清岳寺屋敷にある平城で、別名は弾正屋敷、石橋館、石橋村城。
現在、城跡には慈昌院と言うお寺がある。
最初の築城としては、応永年間(1394年〜1428年)頃で奥平氏2代当主・奥平貞久の次男・石橋久勝(石橋弾正久勝)とされる。
若干の傾斜地にあるが平城としてご紹介させて頂く。

三河・石橋城

奥平氏は、三河・川尻城を最初本拠としたが、1424年に三河・亀山城を築いて移ったとされる。
そして、兄と考えられる奥平貞昌は、三河・久保城の初代城主になっているので、少しずつ岡崎方面に勢力を伸ばして行ったのだろう。
弟・石橋久勝は奥平氏の本貫とも言える作手にて石橋館に入ったと言う事なので、近くに領地を分けてもらったか?
この頃、奥平氏は、三河・久保城と、三河・亀山城と2つを拠点にしていたとも考えられる。
また、三河・亀山城と三河・石橋城は、歩いても3分とかからない至近距離であるため、出仕するのに単純に屋敷を構えたと言う事なのかも知れない。


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1535年、兄・奥平貞昌が死去すると嫡男・奥平貞勝が宗家を継いだ。
しかし、石橋久勝の子・石橋繁昌は、まだ若い奥平貞勝が宗家の家督を継いだのに不満があったようで、1537年に謀反を起こす。
そのため、奥平貞勝の命を受けた奥平定雄(奥平土佐定雄、和田貞盛の次男)によって石橋館は攻撃され、郎党42人が討ち死にしたとある。
長槍で応戦した石橋弾正繁昌も命を落としたようで、合計43名の遺骸は一カ所に埋められたとある。
また、石橋弾正繁昌の子・石橋太郎次郎は鳳来寺へ逃れたようだが、黒谷重氏・黒谷重吉の兄弟が派遣されて処刑したともある。

のち徳岩明和尚が哀れみ亀山城主・奥平貞勝の許可を得て、石橋城跡に石橋山・慈昌院を建立したと言う。
慈昌院の境内奥に案内板などがあるらしい。


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道の駅「つくで手作り村」駐車場から向かい側にあるのが石橋城址になる。
ここの道の駅では、ついつい肉汁がすごいジャンボフランクを頂いてしまう。
三河・亀山城とセットでどうぞ。

交通アクセス

三河・石橋城への行き方・交通アクセスですが、駐車場は道の駅に止めてよいだろう。
城址の場所は当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩ナビとしても可能)

もちろん、三河・亀山城とセットでどうぞ。

塞之神城(塞ノ神城)のちょこっと解説
三河・久保城のちょこっと解説~奥平氏の古い城跡と奥平氏4代当主・奥平貞昌
古宮城 武田信玄が三河侵攻のために築いた名城【続日本100名城】
古宮城の補助解説【続日本100名城】作手(つくで)に築いた武田専用の城跡
奥平貞勝のちょこっと解説~今川・織田・徳川・武田と鞍替えの奥平氏当主
奥平定能と奥平信昌と亀山城~英雄・鳥居強右衛門と長篠城の戦い
三河・亀山城(作手城) よく整備されている平山城


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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