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横浜・今井城とは
横浜・今井城(いまい-じょう)は、神奈川県横浜市保土ヶ谷区今井町にある平山城です。
別名は、今井砦となります。
武蔵国の今井城と申しますと、青梅市にある児玉党の今井城が知られます。
ここ横浜市保土ヶ谷区の今井城も、武蔵国でして、ややっこしいため、横浜のは今井砦と呼ばれることも多いです。
この記事では、異なることを明確にし、混同を少しでも防ぐため、あえて、横浜・今井城として記載させて頂きますこと、お許し願います。
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横浜・今井城の最初の築城としては、平安時代末期に、今井兼平の屋敷があったとの伝承があります。
ただし、史料などに、今井兼平の領地であったなどの記録は残っていないようです。
現在ある金剛寺の背後の山が、横浜・今井城となります。
横浜・今井城への登城口は、南側にあるようですが、台風の影響で倒木が増え、探索するのは困難との情報があったのと、日没が近かったため、金剛寺のみ見学させて頂きました。
石碑や案内板などは、金剛寺の山門を入って、左手、山門の脇と、見えにくい箇所にありました。
今井兼平
今井兼平(いまい-かねひら)は、平安時代末期の武将で、1152年に生まれました。
父は、中原兼遠(なかはら の かねとお)と言う、信濃・木曽の豪族で、兄に樋口兼光、弟に今井兼光がいます。
1155年、武蔵の大蔵合戦にて、源義賢が甥・源義平に討たれた際、その遺児・駒王丸を畠山重能から預かった斎藤実盛が連れて落ち延びます。
そして、駒王丸の乳母が妻(児玉党・千鶴御前?)でった、父・中原兼遠のもとに送り届けました。
そのため、木曾の中原家で駒王丸は養育され、兄・樋口兼光と、今井兼平は、一緒に育って行ったと言う事になります。
駒王丸は元服すると木曾義仲と名乗り、中原兼遠の娘(巴御前とも?)を妾としました。
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兄・樋口兼光は、信濃・樋口谷(木曽町日義)を領地として樋口氏を称しています。
今井兼平(今井四郎兼平)は、今井荘を領したと言う事になります。
それが、横浜・今井城と言う事になりますが、今井兼平の領地(城・館)としては、他にも、新潟県に、糸魚川の今井城と、津南町の今井城。
他にも、富山の越中・白鳥城、福井の今井城と、あちこちに伝承があり、実際には定かではありません。
今井兼平の墓所としても、長野県を中心に、何箇所もあるため、どこを本拠にしていたのか?、確かめるのは難しいです。
1180年、木曾義仲が挙兵した際に兄・樋口兼光、今井兼平らは従い、倶利伽羅峠の戦いなどで平氏の軍勢を破りました。
しかし、木曽義仲が京を追われ、源頼朝の鎌倉勢から追撃を受けると、1184年1月20日、粟津の戦いで、木曾義仲も遂に討死しました。
そのため、今井兼平も、あとを追って自刃しています。享年33。
恐らくは、深手を負い、介錯をしてもらったと言ったところでしょう。
2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では俳優の町田悠宇さんが今井兼平を演じられる。
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ちなみに、兄・樋口兼光は、源義経の軍勢に捕縛され、のち渋谷高重によって斬首されています。
戦国時代の樋口氏としては、上杉家の樋口兼豊、直江兼続、大国実頼らが有名です。
小笠原播磨
城山の麓に名主を務めた清水家があり「先祖寄位牌」には下記のような記載があるとの事です。
戦国時代には、小田原城の北条氏の支配下となっており、今井の地頭は、小笠原播磨。
この小笠原播磨の家来に、今井主計と言う武将がいて、その今井主計は伊豆出身ともされる。
北条氏が滅んで、徳川家康が江戸城に入ると、清水氏が今井に入ったともある。
これら戦国時代の経緯を総合的に判断しますと、小笠原播磨は、小笠原康広と言う武将の可能性があります。
そして、今井主計は、1585年に、地蔵堂本尊(金剛寺)を修復した清水主計助である可能性もあります。
まず、小笠原康広(おがさわら やすひろ)ですが、1531年生まれで、京から招かれた北条家の家臣です。
父は、京都で名を馳せた兵法家・小笠原元続になりますが、この京都・小笠原氏からは、小笠原政清の娘・南陽院殿が、北条早雲の正室となり、北条氏綱を産んでいます。
すなわち、北条一門とも言えるのが、この相模・小笠原氏となります。
父・小笠原元続は、足利義澄や管領・細川高国が没落したあと、従兄弟である北条氏綱を頼ったようで、相模国飯泉郷(神奈川県小田原市)を領しました。
小笠原播磨守康広は、北条氏康から一字を拝領して「康広」と名乗り、更には、北条氏康の娘・種徳寺殿を正室としました。
小笠原康広は、武家故実に精通しており、北条家にて武者奉行や飯泉奉行を務めました。
本貫地は、相模国西郡飯泉郷と追加された矢畠郷にて180貫文だったようですが、一門衆だとすると、他にも細かい領地が、あちこちにあってもおかしくはないでしょう。
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1574年、家督を子の小笠原長房(おがさわら ながふさ)に譲ったようです。
1580年、遠江・浜松城の徳川家康の元に、北条家からの使者として小笠原康広が派遣され、1583年には督姫の輿入れの際、浜松城まで出迎えに赴いています。
1590年、小笠原長房は、北条氏直の近習を指揮して小田原城にて籠城しました。
北条氏滅亡後は、父と共に北条氏直に従って高野山に入っています。
小笠原康広は、播磨入道と号しました。
1592年、加々爪政尚の紹介で徳川家康に仕え、1596年に多摩郡三田郷の武蔵・三田城にか?350石となりました。
1598年、小笠原康広(播磨入道)は死去。
1600年、小笠原長房は、関ヶ原の戦いで、徳川秀忠の軍勢に属し、真田昌幸の信濃・上田城を攻撃しています。
今井主計
さて、小笠原播磨の家来とされる今井主計ですが、恐らくは、今井領の代官として、横浜・今井城に派遣されていたのでしょう。
清水主計助と、同一人物である可能性からは、下田城主などを務めた清水康英の清水氏一族とも考えられます。
そうなると、伊豆から来たと言う事も、うなづけます。
交通アクセス
横浜・今井城への行き方ですが、相模鉄道の二俣川駅・北口からか、JR横須賀線・保土ヶ谷駅の東口から、バスにて金剛寺バス停下車となります。
駐車場は、環状二号の高架下にある、タイムパーキング今井町を利用して、400m、徒歩5分で向かいました。
場所などは、当方のオリジナル関東地図にてポイントしております。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。
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