鶴ヶ渕城とは
鶴ヶ渕城 (つるがぶち-じょう)は、栃木県日光市上三依にある平城です。
最初の築城としては、戦国時代の1569年、会津田島の鴫山城主・長沼実国が造営したと伝わります。
那須・日光方面から、北上してくる佐竹氏などの対策だったのでしょう。
伊達政宗が、会津・黒川城から小田原城を目指した際にも、大内宿・会津田島を経由して、下野街道から抜けて行ったようです。
豊臣秀吉が、黒川で奥州仕置を行ったあと、関西に戻るルートも、この下野街道を利用したとの事。
その後、蒲生領となり、会津に上杉景勝が入ります。
そして、1600年、関ヶ原の戦いの前に、会津若松城の上杉景勝が、東にある姥捨山城と共に改修したと言い、鶴ヶ渕防塁とも書きます。
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鶴ヶ渕城と言う名称になっていますが、実際の機能としては、敵の北上を防ぐための下野街道(しもつけかいどう)の関所・防塁と言った感じです。
幕末の1852年、吉田松陰が東北を見聞した際には、帰り道に、仙台城、陸奥・白石城、米沢城を経て、会津・若松城から下野街道を通って、田島、山王峠、日光を経て江戸に戻りました。
戊辰戦争の際には、宇都宮城から敗走した、土方歳三率いる旧幕府軍と新撰組の混成部隊も、通行して、会津・若松城を目指しました。
山王峠までは、なかなかの、登り坂となっていますが、その先は、そんなに起伏は、激しくありません。
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今でも、会津・山形・秋田方面へと抜けていく大型トラックも、よく通行する下道です。
姥捨山城
男鹿川左岸の遺構となる姥捨山城は、見張り台としての砦機能程度だったようです。
遺構としては「すり鉢状の曲輪」「土塁」「物見台」などがあるようですが、日が暮れてきたため、道路からの撮影に留めました。
ただ、崖しか、写っていませんが・・・。
交通アクセス
駐車場はありませんが、男鹿川を渡れる橋があり、その前後付近の路肩が広くなっており、3~4台程度が駐車できます。
クルマで訪問の場合、誰も、ここで、停車すると思いませんので、早めにウインカーを出して頂ければと存じます。
橋は、ロープで遮られており、渡ることはできませんでしたので、遠景撮影に留めました。
もし、登城されたり、探索なさる場合には、クマ注意です。
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駐車スペースの場所などは、当方のオリジナル関東地図にてポイントしております。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。
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