武蔵・青木城
武蔵・青木城 (あおき-じょう) は、神奈川県横浜市神奈川区高島台と、横浜駅から近いところにある平山城です。
現在、城址は、本覚寺となっています。
東側の尾根伝いで、武蔵・権限山城と連絡していましたが、今では、国道1号とJR線などで、分断されています。
最初の築城は不明ですが、戦国時代の大永年間(1521年~1527年)に、小田原城の北条家臣である多米元興(多米周防守)が、青木城に入りました。
先に築城されていたのは、隣の武蔵・権限山城だったようで、扇谷上杉家の上田政盛が城主でした。
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1510年(永正7年)に、小田原城の伊勢盛時(北条早雲)が、権限山城の上田政盛を内応させます。
そのため、上杉憲房(山内上杉氏)の援軍を得た、上杉朝良(扇谷上杉氏)が、権現山城を落城させています。 (権現山城の戦い)
この時、後詰めとして駆けつけた北条勢は「本覚寺の地蔵堂」を根城(本城)として籠城したとあります。
その後、北条早雲は江戸城を攻略し、北条五色備の黒備えである、重臣の多米氏を配置したと言う事になります。
多目氏(多米氏)は、三河国八名郡多米村(豊橋市多米町)の豪族でしたが、北条早雲が姉である北川殿(今川義忠の正室)を訪ねる途中に立ち寄り、多米元益と仲良くなったと言う話があります。
1495年に、伊勢盛時が、小田原城と、相模・真田城の大森藤頼を攻撃した際に、多米元益の子・多米元興が戦功をあげました。
1569年(永禄12年)、武田信玄が小田原城を包囲した際、多米周防守は武蔵・青木城を放棄して、北条氏綱の娘婿である吉良頼康の蒔田城にて籠城しました。
1577年、多米元興が没ししました。
多米元興の子としては、多米元忠(ため-もとただ) がおり、家督を継いだようです。
北条氏康が上杉憲政を関東から追い出すと、多米周防守元忠は、上野・平井城と、上野・西牧域の城主を兼任し、青木城には、山中主膳正(後北条家20将のひとり)を配置しました。
1588年頃、箕輪城主として、多米長定(多米出羽守平長定)の名が見受けられます。
1590年、豊臣秀吉の北条攻めの際の、多米氏の動向としては、御幣山城の大谷公嘉と一緒に、上野・西牧城にて籠城して、豊臣勢の北国軍と対し、討死した、老齢の多米長宗(多米周防守長宗)と言う武将がいます。
家臣と見られる山口総衛門が、青木城に伝えたとあります。
また、駿河・山中城にて激戦をたたった武将に、討死した多米長定(多米出羽守平長定)がいます。
多米元忠の子 (多米長定の子の可能性も) とされる多米左近は、武蔵・青木城にて、家臣らと切腹したと伝わります。
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幕末の1859年(安政6年)に、横浜港が開港すると、本覚寺が接収されて、この丘に、アメリカ領事館が設けられました。
薩摩藩との「生麦事件」では、負傷したイギリス商人が、助けを求めて駆け込んだところとなります。
交通アクセス
主郭部の下には、歩行者専用の「高島山トンネル」が通っています。
武蔵・青木城への最寄り駅は京急本線の神奈川駅(各駅停車)から、徒歩5分くらいの距離です。
駐車場が本覚寺にありますが、交通量も多く、1度、通行した経験がないと、なかなか、アクセスが難しいところです。
横浜駅周辺のコインパーキングに止めてから、徒歩で向かう事をお勧め申し上げます。
このあと、権現山城に向かいました。
・武蔵・権限山城の歴史解説 権現山城の戦い
・多目元興の解説 多目元忠 北条家の最古参であり河越夜戦での大活躍も
・北条早雲【詳細版】戦国時代の幕開け~北条早雲の生涯
・北条氏康と瑞渓院とは~文武両道な猛将も家中や庶民を大切にした戦国大名
・川越城本丸御殿と川越城~東京からも近い城下町の風情
・関東管領の上杉憲政とは~平井城と平井金山城
・御幣山城(相模・大谷城)~武田勢が10年近く?占領していた藤沢の城跡
・山中城訪問記【山中城の戦い】北条氏の見事な山城
・横浜・今井城の歴史解説~今井兼平の居城?小笠原康広の領地?
・訪問しておきたい神奈川県の城郭・寺院・古戦場など一覧リスト
・当方のオリジナル関東地図
私は豊橋市多米東町住在多米家の血すじ本家87代目代々春日大明神、春日神社神職でした。北条家と関わり家紋が三つ鱗になりました。多米の名前は用明天皇31代の第1子から多米王、豊浦皇子からです聖徳太子の兄弟です、多米王も藤原の先代の血縁関係です。春日大明神、春日神社は我が氏神を祀り用明天皇のめいで鎮座しました。御宮の能書きでは次の天皇と書いてありますが歴史を勉強して頂きたい。