馬籠城(まごめ-じょう)は、岐阜県中津川市馬籠にある丘城で、丸山と呼ばれた高台に築かれていました。
標高は571m、比高は20mほどです。
その脇には中山道が通り、坂道は「丸山の坂」と言い、約400m北側には、江戸時代に整備された宿場町「馬籠宿」があります。
最初の築城は不明ですが、室町時代、馬籠・遠山氏の所領となっており、馬籠城は遠山十八支城のひとつにもなります。
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1473年には、小笠原家長と木曾家豊が伊那谷と木曽谷から遠山荘に侵攻し、馬籠付近は木曽氏が領することになったようです。
その後、甲斐の武田信玄が信濃に勢力を伸ばすと、天文24年(1555年)に、木曾氏は武田氏に降伏し、遠山氏も武田家の傘下に入りました。
下記は、馬籠城に繋がる中山道を、妻籠宿から撮影したものです。
戦国時代の1558年、相模の三浦氏一族とされる島崎重綱が、木曾義在(きそ-よしあり)に仕えて、馬籠城を与えられたとあります。
妻籠宿の脇にある永昌寺は、島崎重綱が菩提寺として建立したとされます。
島崎重綱の出自は、三浦義明の3男・大多和義久の系統になる三浦一族で、横須賀の楠ヶ浦(アメリカ海軍横須賀基地)の領主である永嶋正義(永嶋出雲守正義)の弟・永島正胤(まさたね)が、南北朝時代の幼年期に出家して、木曽に移ったことから始まるともありますが、よくわかりません。
永嶋家は楠木正成の血を継いでいる可能性もあります。
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武田勝頼が、織田信長の軍勢に敗れると、本能寺の変を経て、馬籠城は木曽家の最前線となったようです。
滝川一益も、尾張に逃れる際に、通行したことでしょう。
馬籠宿の坂道を抜けた、妻籠宿側の最上部には「陣馬上展望広場」があります。
戦国時代の天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの際に、木曾義昌が豊臣秀吉に寝返ったため、徳川勢である信濃・飯田城の菅沼定利、高遠城の保科正直、諏訪の諏訪頼忠ら7000が馬籠城を攻撃する際に、陣を張った場所にもなっています。
下記が、その陣馬展望台からの風景です。
馬籠城を守備したのは、豊臣秀吉に恭順した、木曽福島城主である木曾義昌の家臣で、島崎重綱の子・島崎重通となります。
戦略的に劣勢な島崎重通は、馬籠城を放棄して、山村良勝が守る妻籠城に入り、徳川勢の撃退に成功しています。
その後、木曾義昌は徳川家に帰参し、木曾氏を含めた信濃の諸将は、徳川家康の傘下に組み込まれました。
そして、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにて、徳川家康が江戸城に移ると、木曾義昌は、1万石にて千葉の芦戸城に移ります。
このとき、島崎重通は、木曽氏に付き添わず、馬籠に残る選択をし、郷士となりました。
1600年、関ヶ原の戦いの際にも、中山道を進んだ、徳川秀忠の軍勢が通過したものと推測されます。
江戸時代に入り、中山道が制定されると、宿駅として馬籠を整備し、島崎氏は、明治に至るまで、代々、本陣や庄屋、問屋を務めました。
妻籠宿の本陣も、島崎氏の一族が任に当たっています。
そして、明治5年には、小説家・島崎藤村が、妻籠の本陣で生まれました。
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馬籠城ですが、特に遺構などなく、案内板がある程度となります。
馬籠城への交通アクセス・行き方ですが、当方のオリジナル地図にてポイントしております。
なお、旧中山道の1.5車線道路は、路線バスも通ります。
駐車場はありませんので、じっくり見学する場合には、馬籠宿の無料駐車場に止めて、中山道を中津川方面に、徒歩5分ほどになります。
電車の場合、JR中津川駅から、3番乗り場「北恵那交通バス」の馬籠線「落合・馬籠方面」行きに乗車して、所要25分、終点の馬籠バス停下車し、徒歩5分となります。
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