長崎県

日野江城 有馬晴信 沖田畷の戦いでは南蛮防衛での最新兵器を駆使か?

日野江城

肥前・日野江城主としては、日野江藩の初代藩主でもある有馬晴信(ありま-はるのぶ)が有名です。
日野江城(ひのえじょう)は、長崎県の島原半島(長崎県南島原市北有馬町)にある連郭式平山城で、日之江城、日ノ江城、火ノ江城、日ノ枝城とも呼ばれる国の史跡です。

日野江城

鎌倉時代の建保年間(1213年~1219年)に高来郡を領した藤原経澄が築城したのが始まりで、のち子孫が有馬姓を称しました。
その後、有馬貴純の時には、近隣諸勢力を制圧して戦国大名と成長し、1496年には支城として原城を築いています。
最盛期には21万石を有しましたが、後ろ盾であった大内義隆が衰退・滅亡すると、佐賀城主・龍造寺隆信、西郷純堯・深堀純賢兄弟の圧迫を受け次第に領地を失っていきました。

そんな中、1567年、有馬義貞と母・安富入道徳円の妹との間に次男として誕生したのが有馬晴信となります。

兄・有馬義純が1571年に22歳の若さで死去すると、嗣子がいなかったため、有馬晴信(有馬鎮純)が兄の養嗣子となることで家督を継ぎました。
まだ、僅か5歳の時です。
そのため、有馬家は龍造寺隆信に臣従するしかなかったようです。





九州ではキリスト教が広まっており、有馬晴信は1580年の14歳の時に、イエズス会巡察師ヴァリニャーノのもとでキリスト教の洗礼を受けています。
受洗名はドン・プロタジオで、領内にセミナリオ(イエズス会の教育施設)を建設し、領民の多くもキリシタンとなりました。
1582年には、大村純忠大友宗麟と共に、伊東マンショ千々石ミゲル原マルチノ中浦ジュリアン天正遣欧少年使節をローマ教皇のもとに派遣しました。
これらの行動は、単に切支丹になると言う事では無く、南蛮貿易による利益を得る為でもあったようで、有馬晴信の朱印船が渡航した回数は尋常ではありません。
しかし、そのお蔭もあり最新の兵器や鉄砲の火薬などもふんだんに仕入れることができたようです。

なお、有馬晴信自身、有馬鎮貴→有馬久貴→有馬久賢→有馬正純→有馬晴信と改名もしています。
正室などは、日本の記録とキリスト教での記録とで多少食い違いがありますので、なんとも言えませんが、正室はルチア(有馬義純の娘または大村純忠の娘)で、継室はジュスタ(中山親綱の娘、中山忠親末裔)(菊亭季持の未亡人)。
他にも、継室又は側室である大上(家臣・山田純規の娘)、側室であるジュスタ(中山親綱の娘)がいるともされています。

1581年から薩摩の島津家は北上しており、1584年3月、有馬晴信は龍造寺家から離反します。





有馬晴信の縁戚になる深江城主・安富純冶・安富純泰の父子は、龍造寺に味方したため、有馬晴信は島津勢の加勢を受けて、深江城攻めました。
これに対し、龍造寺隆信は、子の龍造寺政家に有馬攻めを命じましたが、有馬家は妻の実家であったことから一向に進みません。
そのため、龍造寺隆信が自ら3月19日に龍王崎から出陣し、3月20日には島原半島北部の神代城に上陸します。

沖田畷の戦い

肥後で大友家を警戒していた島津義久は、島原に弟・島津家久、島津忠長、島津彰久、島津豊久、新納忠元、伊集院忠棟、平田光宗、上原尚近、山田有信、川田義朗、川上忠智、川上忠堅、鎌田政近、猿渡信光、赤星統家、頴娃久虎らを派遣しますが、主力は動かせず、5000にも満たなかったとされます。
一方、龍造寺隆信は、執行種兼、龍造寺康房(鍋島信生の実弟)、小河信俊(鍋島信生の実弟)、江里口信常、成松信勝、百武賢兼、円城寺信胤、木下昌直、納富賢景(納富信景の子)、江上家種、後藤家信、鍋島信生(のちの鍋島直茂)、神代貴茂、石井党、大村純忠、西牟田統賢ら25000とも言われる大軍を自ら率いて深江城を救援し、島津・有馬の連合軍との決戦を決意していました。
浜の城には、龍造寺家に臣従していた有馬一族の島原純豊が籠城したようです。

これに対し、島津・有馬連合軍は1万にも満たず、有馬晴信(有馬鎮貴)は更なる島津家からの援軍を待とうと進言しますが、島津家久は防衛策による龍造寺勢壊滅を模索し、島原の北方にある沖田畷で迎撃すると定めました。





この頃の島原周辺は海岸線から前山の裾野にかけて広大な湿地と深田が広がっており、前山と森岳城との間にある道も幅が大変狭かったと言います。
その湿地帯を縦貫する畷(なわて)が、沖田畷と言う事です。
畷(なわて)というのは、田んぼのあぜ道と言う意味ですね。
要するに大軍も移動が困難な狭い道に大木戸を造って待ち伏せし、森岳城には柵を築いて防御態勢を整えました。

有馬晴信(18歳)は森岳城に本陣を構え、海岸線には伊集院忠棟ら約1000、内陸側の大木戸には赤星一党の50人、丸尾城には猿亘信光(猿亘越中守)、また島津家久はとして森岳城の背後に布陣し、新納忠元ら1000は前山の山裾に伏兵として配置しました。

これに対して1586年3月24日の未明、龍造寺勢は沖田畷に進軍し、山手側を鍋島信生、海岸側を龍造寺隆信の次男・江上家種と後藤家信ら進み、中央は龍造寺隆信の本隊が沖田畷を突破し、森岳城を攻撃する構えを見せました。

辰の刻(午前8時頃)に戦闘が始まったと言います。
龍造寺勢が攻めて来ると、島津義久は敗北を装って退却しました。
勢いに乗じて、狭い道を進軍した龍造寺勢に対し、島津・有馬勢は弓・鉄砲で迎撃します。
こうして、龍造寺家の先陣は崩れ、助けようとした両脇の二陣も左右が深沼で、思うように進めなくなります。
その様子を見にた龍造寺家の使番は、命を惜しまず攻めろと諸将に伝達したこともあり、無謀な攻撃続けた結果、潜んでいた島津勢の伏兵が突然現れて、挟撃される結果となりました。

また、龍造寺勢にやむなく従っていた大村純忠の300と、有馬晴信は血縁もありキリシタン大名でもあったことから、鉄砲からは弾丸を抜き、空鉄砲を撃つことを事前に申し合わせていたとされます。





ルイス・フロイスの「日本史」によると、有馬勢は2門の大砲を船に積んでいたが、砲手がおらず、アフリカのカフル人が弾丸を込め、マラバル人が点火して、大砲で攻撃したとあります。
こうして、沖田畷の戦い(沖田畷合戦)で、龍造寺家は鍋島信生の実弟・龍造寺康房、小河信俊をはじめ、重臣の成松信勝、百武賢兼ら約2000が戦死と多くの将兵を失いました。

龍造寺隆信は、未の初刻(午後2時)、床机に腰掛けているところを、銃弾を受けたともされます。
そして、島津勢の川上忠堅に発見され、討ち取られました。享年56。
龍造寺家の重臣・鍋島直茂は、自害しようとしましたが、家臣に押しとどめられ柳河城に撤退しています。
浜の城の島原純豊は有馬晴信と島津家久に包囲されたため降伏し、以後は鍋島直茂に仕えたようです。

下記は島原・沖田畷合戦場跡にある龍造寺隆信の供養塔です。

龍造寺隆信の供養塔

龍造寺隆信の供養塔がある場所ですが、下記の地図のポイント地点から歩行者専用の小道を入って工場の奥、R251(旧道)から入って30秒ほどのところにあります。

沖田畷の古戦場

下記地図ポイント地点がその島原街道(国道251号)からの入口です。
付近に駐車場はありませんので、ご注意願います。

なお、下記は沖田畷合戦で討死した双方の霊を供養した小祠を建てたのが始まりの二本木神社です。
二本木様は病除けの神様で、現在の社殿等は鍋島家の寄進によると言います。

二本木神社

沖田畷古戦場跡でもある境内には、小さな石碑もありました。

沖田畷古戦場跡

二本木神社の駐車場は下記の地図ポイント地点です。

さて、有馬家は以後も島津家に臣従しました。
しかし、1587年に豊臣秀吉が九州征伐(九州攻め)を開始すると、豊臣勢の調略を受けて従いました。
豊臣秀吉も南蛮貿易を盛んにしたかったので、利害が一致したとも言えます。
大友宗麟亡きあと、有馬晴信は九州におけるキリシタン大名の中心人物となっていたのです。
そのため、1587年に豊臣秀吉が禁教令を出したあとでも、有馬晴信は個人的にキリスト教信仰続けられたとも言えるでしょう。
キリシタン制限令によって追放となった神父・修道士ら70名を領内にかくまっても、有馬晴信にはお咎めはなかったのです。





下記は日野江城下にある有馬のセミナリヨ跡です。
セミナリヨと言うのは、イエズス会の司祭・修道士を育成する初等教育機関(小神学校)のことを呼びます。

有馬のセミナリヨ跡

朝鮮攻めとなる文禄・慶長の役では、同じキリシタン大名である小西行長の一番隊として名護屋城から渡海しました。
なお、弟である鬼子岳城主・波多親は二番隊として同行していますが、松浦鎮信を除いた他の帯同者は皆がキリシタン大名でした。
この時、有馬晴信は2000を率いましたが、兵船や武器などの装備は、どれも最新式で充実しており、他の大名家を凌駕していたとされ、諸大名も感嘆したと言われています。

1600年、関ヶ原の戦いの際、有馬晴信(34歳)は日野江城にいて最初は西軍に加味しました。
しかし、関ヶ原石田三成が敗れると言う報に接すると、東軍に寝返って、肥後の小西行長が籠る宇土城を攻めています。
この功績が認められ、徳川家康からは所領を安堵されました。

また、15歳になっていた嫡男・有馬直純(ありま-なおずみ)が、駿府城に出仕し徳川家康の側近として仕えています。

有馬晴信は更に貿易を拡大しようと、徳川幕府の許可を得て、1609年2月に台湾へ出兵します。
しかし、明との貿易のための拠点を築くことは出来ず、失敗しました。

そんな折り、1609年、有馬晴信が占城(チャンパ)に派遣した朱印船が、マカオに寄港した際、船員がポルトガル船マードレ・デ・デウス号との取引を巡って争いとなりました。
この時、当時マカオのポルトガル総司令官だったアンドレ・ペソア(Andre Pessoa)が鎮圧しましたが、朱印船の乗組員や家臣48人が殺害される結果となります。

アンドレ・ペソア司令官は、1609年5月に長崎へデウス号で来航し、長崎奉行の長谷川藤広(長谷川左兵衛藤広)に対し、事件に関する調書を提出し、自ら駿府城に赴いて徳川家康に陳弁すると申し出ました。
これに対し、有馬晴信は徳川家康に仇討ちの許可を得て、兵船30艘と1200人の兵を動員し、1609年12月12日から4日間、長谷川藤広と共にデウス号を攻撃しました。
アンドレ・ペソアは、船員を逃がしたあと、火を放ってデウス号の火薬庫を爆破させ、船と共に運命を共にしています。





この時、幕府の監視役として派遣されたのが、長谷川藤広の旧家臣で、幕府の重鎮・本多正純の家臣となっていた岡本大八です。
この事件の後、同じキリシタンだった岡本大八は有馬晴信に対して、ポルトガル船を撃沈した恩賞として、徳川家康が有馬の旧領21万石に復帰してくれるだろうと嘘を言い、口利き料として多額の金品を受け取ったようです。
実際、それが功を奏したのか不明ですが、嫡男・有馬直純は、1610年にキリシタンであった妻・マルタ(小西行長の姪)を離縁し、徳川家康の養女・国姫(桑名藩藩主・本多忠政の娘)を正室として迎えています。
約6000両もの大金が岡本大八に渡ったようですが、いつまでたっても恩賞の話が届かない有馬晴信は、直接、本多正純の元を訪れてみたため、この岡本大八の虚偽が発覚しました。

徳川家康は駿府町奉行・彦坂光正に調査を命じ、1612年2月、岡本大八を捕縛します。
厳しい拷問の末、岡本大八は罪を認めたものの「有馬晴信は長崎奉行の長谷川藤広を暗殺しようとしている」と吐露します。

これは、デウス号を攻撃していた際に、有馬晴信が長谷川藤広の攻撃が「てぬるい」と評し、腹を立てて「次は藤広を沈めてやる」とまで口走っていたことに付け込んだものでした。
驚いた本多正純は、有馬晴信も呼び出して3月18日に、江戸城大久保長安邸で両者を尋問。
有馬晴信も長谷川藤広へ対して、そのように話したことや、岡本大八に賄賂として金品を渡したことを正直に認めました。





徳川家康は激怒し、1612年3月21日、岡本大八は朱印状偽造の罪により駿府城下を引き回しのうえ、安倍河原で火刑(火あぶり)となっています。

有馬晴信に対しても3月22日に処分が出され、旧領回復の弄策と長崎奉行殺害企図の罪で、有馬晴信は蟄居処分となります。
甲府城主・徳川忠長の家老である谷村城主・鳥居成次(鳥居土佐守)のもとに、家臣35名とともに預けられ、甲斐の都留郡初鹿野の丸林に蟄居・幽閉となりました。

有馬晴信謫居の跡

ただし、島原藩(日野江藩)は、嫡男の有馬直純が、徳川家康の小姓だったことや、養女を正室としていたことなどから連座を免れ、父の所領を受け継ぎ肥前・日野江藩主(島原藩主)となっています。

なお、徳川幕府は岡本大八を処刑した同日、幕府直轄地に対してキリスト教の禁教令を発布。
諸大名にも棄教を迫ったため、あとを継いだ有馬直純は領内のキリシタンを迫害開始しています。

初鹿野に蟄居していた有馬晴信は、幕府に対して弁明の書状を出しますが、その後、切腹の沙汰が届きました。





検使は鳥居成次と、板倉重宗(板倉周防守重宗)の2名で、武装した150名の兵が屋敷を囲んだと言います。

しかし、キリシタンであったため、家臣らには追い腹(殉死)を固く禁じ、自らも自害を拒み、殺害されることを望みました。
そのため、妻らが見守る中、1612年5月6日、老臣・梶左ヱ門の介錯によって首を落とされたと言います。享年46。(享年51とも)

有馬晴信の供養碑

ただし、徳川幕府の記録上では切腹となっています。
仏霊名は晴信院殿迷誉宗転大禅定門です。

甲州街道の宿場となる初鹿野といえば、武田勝頼岩殿山城への退却を断念して、初鹿野から田野へと入り自刃した景徳院からもそんなに離れたところではありません。
初鹿野にある史跡・有馬晴信謫居の跡では、2012年の400年記念祭以降、毎年追悼のためミサも行われるそうです。

初鹿野・ 有馬晴信の蟄居地

なお、昭和初期まで有馬晴信の墓もあったそうですが、国道20号を建設した際に、どうも埋没することになったようです。
有馬晴信謫居の跡の場所ですが、山梨県の笹子峠付近国道20号の橋脇から下にある畑にあります。
下記の地図ポイント地点です。

駐車場はありません。
地図を見ると車で入れそうに見えますが、とてもクルマが通れる道路ではありませんので、クルマの場合、近くの「道に駅」に止めた方が無難です。
吊り橋もあってちょっと楽しい散策になります。





有馬晴信の墓がある場所は不明ですが、イエズス会マテウス・デ・コウロスが、1612年にローマに送った年報に記述があります。
首が落ちるとジュスタが直ちにそれを手に取り、日本の風習に従い、家来もジュスタも髪を切った。
緞子を張った有馬晴信の棺は、妻・菊亭ジュスタや家来、また徳川幕府の検視役2名と従者が、近くの敬虔な場所(お寺か墓場?)に運んで埋葬した。
この時、雨が降っていたそうですが、故人に対する畏敬の念から、誰も頭を覆うものはなかったとも記されています。

また、甲斐・栖雲寺には「有馬晴信生前の姿を映した」とされる「虚空蔵菩薩画像」と言う掛軸が現存しているそうです。

日野江城

さて、九州にて4万石の日野江城ですが、現在は石垣・空堀が残されており、発掘調査の結果、安土城にしか見られない直線階段の存在や、海外の技術を取り入れた石組み・金箔を施した瓦などが出土しています。
金箔瓦は、豊臣秀吉の独占特許みたいなものでして、許された大名は岡山城宇喜多秀家など、ごく一部に限られていますので、有馬晴信は小大名ながら一目置かれていたのが分かります。

日野江城

有馬直純は、棄教しない父と後妻・ジュスタの子である8歳と6歳の異母弟・フランシスコ(富蘭)とマティアス(於松)をも殺害。
それら良心の呵責に耐えかね、江戸幕府に転封を願い出ました。

日之江城

そして、1614年7月、加増される形で日向・延岡城に5万3千石で移封し、有馬家が約400年間にわたり納めた島原と別れを告げました。

下記の写真ですが、日之江城の本丸へ登る手前にイノシシ除けの「柵」がありました。
しかし、ドアの部分を開けて入れます。

日之江城

その後、日野江藩は、1616年に松倉重政が入るまでは天領でした。

日野江城

松倉重政は入封後、新たに島原城を築城し、日野江城は廃城となっています。
下記は日野江城の本丸ですが、そんなに広くはありません。

日野江城の本丸

日野江城よりも支城・原城の方が規模が大きいように感じます。

日野江城

その後、1637年に原城で起こった天草・島原の乱では、地理に明るいことから有馬直純が4000を率いて征伐に加わり、乱を起こした旧臣や元領民と対決しました。
この時、豊前・中津藩主である小笠原長次の軍監として参陣した剣豪・宮本武蔵から、有馬直純は書簡も受け取っています。

春には桜もキレイそうな日野江城跡です。
戦国時代の日野江城は海に面しており、海面に写る朝日が綺麗だったと言います。

日野江城

下記は三ノ丸郭群です。北の丸方面は道も無いようですので、足を踏み入れるとしたら2月頃に限定されそうです。

日野江城

下記の尾藤碑は、天草四郎が立て籠もった原城への総攻撃で、負傷を追い帰還後に絶命した、細川家の尾藤金左衛門の碑です。

尾藤碑 日野江城

さて、日野江城跡への行き方・アクセスですが、今回、西側にある浦口から細い道を車で入って行きました。
観光所要時間ですが、本丸部分だけでしたら約20分といったところです。

日野江城跡・浦口

下記の地図ポイント地点にクルマ3台くらいの駐車スペースがあります。
ここまでは狭いながらも舗装されていますが、対向車が来たら完全にアウトな道です。

徒歩で日野江城を訪問する場合には、東側の麓にある大手口付近の駐車場に止めて、登ると良いみたいです。
原城からはクルマで10分の距離ですので、セットでどうぞ。

大村純忠 日本初のキリシタン大名の生涯
龍造寺隆信とは~5分でわかる龍造寺隆信
島津家久とは~釣り野伏せにて数多くの敵将を討ち取った勇将
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中級者向け
旧国名
肥前
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道も駐車場も狭め。




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