越前・大野城とは
越前・大野城(おおのじょう)は福井県大野市にある標高249m・比高80mの亀山に築かれた梯郭式平山城で、続日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれました。
18歳になった金森長近は近江から織田信秀に仕官しましたが、そのまま織田信長の元で活躍します。
そして、越前の一向一揆平定でも戦功があったことから、1575年、金森長近は越前・大野郡の3分の2となる3万石にて大野に入りました。
恐らくは、府中三人衆として入った越前・府中城の前田利家、小丸城の佐々成政、龍門寺城の不破光治も約3万石ですので、同じように金森長近にも釣り合いを取った言う事なのでしょう。
そして、金森長近は北ノ庄城に配置された柴田勝家の与力となりました。
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ちなみに、大野郡残りの3分の1の約2万石は、原政茂(原長頼)に与えられ、越前・勝山城を本拠としています。
金森長近は、大野郡の山城となる下記の戌山城(いぬやまじょう)を最初に本拠としました。
そして、翌年くらいから、約1km離れた独立丘陵となる亀山に新城の築城を開始しました。
亀山にある事から亀山城とも呼ばれますが、山頂部が本丸で、東麓に二の丸、三の丸を配した平山城です。
4年の歳月を要して完成したと言い、2層4階建ての大天守、2層2階の小天守、麓には内堀と外堀をめぐらしていました。
石垣は、小丸城同様に野面積みです。
下記は越前・大野城の南側にある登城口で、北側からも登れますがココから登ってみました。
なお、地元の高校生でしょうか?
大野市でも「こんちは」攻撃を受けました。
すごく、短く1秒くらいで「こんちゃ」と言うので、最初、何を言っているのか、よくわからなかったのですが、史跡関係の観光地では、中高生より、よくこのように、短い言葉で挨拶を受けます。
公園整備されていますので、遊歩道はとても歩きやすいです。
私は挨拶を受けたら、極力全員に挨拶を返すようにしていますので、相手の人数が多い時は大変でございます。
そのため、相手人数が多い時は「こんちは攻撃」と呼んでおります。
上記のカーブを右にそれて細い道を登るのが、昔からある登城道です。
しかし、結構、階段になっていて、大回りでも広い道で上がればよかったと後悔しました。
細い道を登りきると本丸直下に出ます。
そして、本丸入口です。
天守の手前辺りで入場料となります。
復元天守ですが、なかなかよい雰囲気です。
下記は天守の上から二の丸方向を撮影したものとなります。
東麓はかつての城下町中心部ですが、短冊状の城下町となっており、大野が「北陸の小京都」と呼ばれる所以となっています。
さて、話を戻しますが、1583年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れると金森長近は剃髪して、羽柴秀吉に降伏しました。
その後、小牧・長久手の戦い、富山城の戦い、飛騨の姉小路頼綱討伐などで功績を挙げたため、天正13年(1585年)に3万8700石にて飛騨一国を与えられ、高山の鍋山城に移っています。
その後、播磨・立石城から8万石で青木秀以と替わり、1592年には織田信雄の嫡男・織田秀雄が5万石にて大野城に入っています。
1600年、関ケ原の戦いの際、織田秀雄は大谷吉継らと石田三成に協力したため所領没収となり、福井城主となった結城秀康の重臣・土屋正明が1602年に越前大野城主となりました。
土屋正明は結城秀康の死の際に殉じると、小栗正高が大野城主となっています。
1624年に、松平秀康の3男・松平直政が、上総・姉ヶ崎城から大野に5万石で入り大野藩が立藩します。
1682年には、大老・土井利勝の四男・土井利房が4万石で大野藩主とになり、幕末まで土井家が領しました。
現在の越前・大野城は公園として整備されており、天守閣は昭和43年に復興再建されたもので、城内の資料館には歴代城主の遺品などが展示されています。
資料館の営業は、4月~9月が午前9時~午後5時。
10月~11月は午前6時~午後4時。
冬季の12月1日~3月31日は休館となります。
帰りは北側へ抜けて武家屋敷へと向かいました。
雲海の越前大野城
天空の城と申しますと、兵庫の竹田城が有名ですが、越前大野城も、雲海に浮かぶ天空の城として知られています。
大野盆地全体が雲海につつまれ、越前大野城だけが浮かんで見えると言う幻想的な風景となり「天空の城越前大野城」としても注目されています。
雲海が現れる気象条件は概ね下記のとおりです。
前日に雨が降った(または湿度が高い)、前日の気温がある程度高い、放射冷却で冷え込んだ朝(明け方~午前9時頃まで)、さらに風が弱い。
具体的な時期は10月~4月末となりますが、11月が最も確率が高いそうです。
しかし、年に10回程度と本当にレアな条件となります。
雲海が見れる撮影スポットとしては、戌山城の南郭となりますが、クマやイノシシに遭遇することもある登山となります。
武家屋敷
越前・大野城下には、江戸時代末期の武家屋敷が保存されており、有料公開しています。
入場券は、最初に購入する窓口にて「共通券」を購入すれば、お安く割引にて見学可能だとのことを、あとで知りましたのでちょっと損した気分です。
武家屋敷旧田村家
武家屋敷旧田村家は、越前大野城の外堀(百間堀)西側の三の丸にあった、300石の藩士・田村又左衛門(たむら0またざえもん)の主屋おもやを解体復元したものです。
庭園の築山は、越前大野城の外堀らある土塁を転用しています。
この土塁は、現在は田村家の庭園内に残るのみとの事で、大変貴重です。
武家屋敷旧内山家
武家屋敷旧内山家は、天保13年(1842年)から藩財政の立て直すしに、尽力した内山七郎右衛門良休(うちやま-しちろううえもんりょうきゅう)と、内山隆佐良隆(うちやま-りゅうすけよしたか)兄弟の屋敷となります。
内山良休は藩営の商店となる「大野屋」を開設し、他にも銅山経営などで手腕を発揮し、多額の借財に苦しんでいた藩財政を立て直し、万延元年(1860年)に家老職を命じられました。
弟・内山隆佐は蝦夷地開拓の推進、洋式帆船「大野丸」の建造、そして蘭学の振興、軍備拡大などを手掛けており、文久3年(1863年)、家老兼軍事総督となりましたが、家老は辞退しています。
下記は、武家屋敷近くに残る、外堀(百間堀)です。
大野城の門
越前大野城の門が、大野市の2箇所に移築現存しています。
真乗寺の山門は、大野城の不明門とされます。
光明寺山門は、櫓門であった鳩門の門部分だと言われていますが、大変立派な城門です。
下記は大野藩主隠居所で、復元されたものだと思います。
建物の中は無料休憩室になっています。
それぞの建物がある場所は、当方のオリジナル地図でも正確な場所がわかるようにしてあります。
その他
越前大野は伏流水(湧き水)も大変豊かなところで、街のあちこちに、清水があります。
他にも越前大野城近くには、朝倉家滅亡にまつわる亥山城跡や戌山城跡、朝倉義景墓所、その朝倉義景が一乗谷から逃れていたと考えられる曹源寺もありますので、時間があればセットでどうぞ。
ただし、上記でご紹介した真乗寺と曹源寺、亥山城跡などの辺りは道がとても狭く、普通車は通行困難なところがあります。
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交通アクセス
越前大野城への行き方ですが、JR越美北線の場合、越前大野駅から徒歩約30分ですので、駅からはタクシー利用が良いです。
クルマの場合、麓に数箇所も無料駐車場がありますのでありがたいところです。
登城口から山頂までは徒歩約15分となります。
越前・大野城の観光所要時間は、城だけでしたら約1時間となります。
武家屋敷なども見学する場合にはプラスアルファお願いします。
・金森長近~赤母衣衆から北陸方面を任される
・北ノ庄城(北の庄城)~北陸支配の柴田勝家とお市の方の居城
・福井城(結城氏北ノ庄城)~今も福井の拠点となる立派な城構え
・朝倉義景とは~一乗谷朝倉家百年の栄華
・柴田勝政と原長頼「越前・勝山城」
・一乗谷城(一乗谷朝倉館)と一乗谷城の戦い~朝倉氏の栄華
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