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苗木城とは
苗木城(なえぎじょう)は、岐阜県中津川市にある標高426mの山城で、比高は126mほどになります。
国の史跡になっているほか、続日本100名城にも選ばれました。
別名は赤壁城、霞城、霞ケ城、高森城とも言い、眼下には木曽川を望む断崖の上にあります。
最初の築城としては、1242年に広恵寺城を築いた遠山景村の領地となり、弟・遠山景員が苗木砦を築いたともされ、遠山十八支城に数えられます。
また、元弘年間(1331~1334年)に遠山一雲入道と遠山景長の親子が高森(中津川市苗木町)に本拠を移し、高森山に砦を築いたともあります。
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この苗木・遠山氏は、鎌倉幕府の有力御家人・加藤景廉の子孫で、美濃・遠山氏が本家筋となります。
この苗木城の歴史としては、美濃と信濃の境目で、木曽川の流通を抑える交通の要所と言う事もあり、周辺勢力による奪い合いが何回もありました。
元弘~建武年間(1334~1336)の頃には、広恵寺城主・遠山景利が南朝に味方し、井伊谷城が落城して逃れてきた後醍醐天皇の皇子・宗良親王を迎えました。
このとき、近隣の北朝勢が攻め寄せたようですが、雷雨が降り撃退したとあります。
その後、美濃・土岐氏の傘下にあった遠山氏ですが、応仁の乱となり、美濃を守備していた斎藤妙椿が伊勢遠征を行ないます。
この隙に、1473年10月、松尾城主・小笠原家長と木曾家豊が伊那谷と木曽谷から東濃に侵攻しており、美濃・大井城や荻島城・刈安城が落城しました。
恐らく、苗木城も小笠原勢の手に落ちて、しばらく小笠原氏が統治したようで、苗木・遠山氏は、1504年、王滝城の戦いにて、木曽義元の軍勢として参加しています。
1524年3月には、小笠原定基の家臣・高柴景長が苗木・神明神社の造営を行っています。
そんな中、1526年、遠山昌利(遠山一雲入道昌利)は、植苗木館から高森山に屋敷を移しました。
松尾小笠原氏の小笠原定基は、鈴岡小笠原氏の旧臣である下条氏と府中小笠原氏によって信濃・松尾城が陥落し、1534年には甲斐の武田信虎を頼って逃れました。
その後、苗木・遠山氏の一族は木曽氏の傘下にあったと考えられます。
そして、美濃・遠山氏は、武田・織田・森氏によって圧迫されてきます。
天文年間(1532年~1555年)に遠山正廉が苗木城を改修しました。
1555年、木曽福島城主・木曾義昌が武田信玄に降伏して従属しています。
これにより東美濃は、美濃・斎藤氏、尾張の織田氏、そして甲斐の武田氏にとっても、防衛上、重要な場所となりました。
美濃・遠山氏は、1556年、稲葉山城主・斎藤道三による侵攻を受けたようですが、武田信玄は遠山氏の本拠地である岩村城を攻略し、秋山虎繁(秋山信友)を送りました。
秋山虎繁(秋山信友)が、美濃・苗木城に入っていた可能性も指摘されていますが、やがて、美濃・大島城に移って、美濃・岩村城の遠山景任を支援しました。
1560年には、苗木勘太郎なる武将が、織田勢として桶狭間の戦いに出陣しておりますが、苗木城主・遠山直廉は織田信秀の4娘(苗木勘太郎室)を正室に迎えています。
1565年、美濃・金山城の森可成が武田勢から攻撃されると、苗木勘太郎の娘(遠山直廉の娘)・龍勝院が、織田信長の養女となって、武田勝頼に嫁いで、織田家と武田家は和睦しました。
また、苗木・遠山氏は武田家にも人質を出しており、織田・武田の両方に従属すると言う、大変微妙な立場となっています。
清洲城主・織田信長も「おつやの方」を遠山景任に嫁がせますが、1572年、遠山景任が死去すると、織田信長は5男・御坊丸(織田勝長)を、岩村城主としました。
また、遠山直廉は、武田信玄からの命にて飛騨・三木氏を攻撃しましたが、この時の矢傷がもとで死去しました。
男子がなくなった苗木・遠山氏に対して、織田信長は飯羽間城から遠山友勝を苗木城に入れています。
その直後、山県昌景と秋山虎繁による上村の戦い(上村合戦)にて織田勢・遠山勢は敗れて、女城主・おつやの方は秋山虎繁の妻になっています。
武田信玄が死去すると、木曾義昌が河折籠屋を攻めて、苗木城も攻撃したようです。
1574年2月、武田勝頼が侵攻し、美濃・高山城と苗木城なども含めて周辺16城が武田氏の配下となりました。
1575年、織田信忠が反撃して、美濃・岩村城を攻略し、東濃を奪還しています。
1582年、苗木城主である遠山友忠・遠山友政の親子は織田勢の先鋒として、甲斐の武田攻めに加わり、鳥居峠の戦いでは、一番槍の戦功を挙げました。
しかし、明智光秀の本能寺の変となると、美濃・遠山氏は、森長可に反旗を翻します。
そのため、兼山城主・森長可は、幸田孫右衛門を派遣して苗木城を攻めました。
1度は撃退した苗木・遠山氏でしたが、再び、森勢の大塚次右衛門・林新右衛門が攻撃すると、遠山友忠・遠山友政の親子や一族家臣らは、徳川家康を頼って浜松城に逃れています。
以後は、完全に森氏が抑えたようです。
1599年、森忠政が、信濃・海津城に移封となると、茨木城主・川尻直次が美濃に加増を受けて、苗木城には家臣の関治兵衛が入っています。
1600年、関ヶ原の戦いの際に、徳川家康の命を受けた遠山友政が、旧領回復を狙っては苗木城を攻め落とすと、苗木領を安堵されて苗木藩10500石となりました。
同様に遠山利景を明知城、小里光親は小里城を回復しています。
遠山友政は、山頂の大きな岩に穴を穿ち天守を構えたようですが、予算不足で、城の壁は白漆喰ではなく赤土がむき出しになっていたようです。
そのために「赤壁城」とも呼ばれている由縁となります。
前回、近くまで向かったのですが、大雨で接近することも断念した経緯もあり、ようやく、再訪することができました。
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苗木城への交通アクセス
苗木城への交通アクセス・行き方ですが、秋には、JR中津川駅から北恵那交通「苗木城跡直行バス」が土日祝に臨時運行(1日4往復)されます。
クルマの場合には、大手門の扉と柱が展示されている苗木遠山史料館に車を停めても良いですが、史料館から先にも10台ほどの駐車場がありますので、当方のオリジナル地図にて場所をポイントしておきます。
駐車場からの観光所要時間は40分~60分といったところです。
冬期は道路凍結に注意です。
続日本100名城スタンプの場所は資料館になり、苗木城の御朱印もあるようです。
このあとは、美濃・大井城に向かいました。
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