火渡館(ひわたり-だて)は、岩手県遠野市附馬牛町上附馬牛にある比高60mの平山城となります。
最初の築城は不明ですが、鎌倉初期に遠野郷に入った陸奥・横田城の阿曽沼氏の庶流が、附馬牛(つきもうし)を知行した模様で、火渡館を築いて附馬牛氏とも火渡氏とも称したようです。
ただし、火渡館を儲けた時期は戦国時代の阿曽沼中務(火渡中務)の頃と考えられます。
また、釜石の狐崎城主であった狐崎玄蕃が、遠野の附馬牛に移ったと言う記録もあるようですが、その地が火渡館だったのか?附馬牛氏と称したのか、憶測に域に過ぎません。
城跡は猿ヶ石川と荒川の合流点に近い丘陵上にあり、二重三重の濠と数段の帯郭が残っている模様です。
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火渡中務の子である火渡広家は、のち火渡玄浄と号していますが、1600年、阿曽沼広長の最上出陣中に発生した反乱軍の誘いを断りました。
鱒沢広勝による再三の説得にも応じず、
そのため、鱒沢城主・鱒沢広勝、上野広吉、平清水景頼らに攻められ、火渡館では合戦となりました。
家臣の大野源左衛門が奮闘したと伝わりますが、火渡中務広家は討死しています。
火渡玄蕃広家は、大槌城主・大槌孫八郎を頼ろうと、城から脱出したともされます。
そのときの逸話としては、自分が自刃したとして死体になり、籠をかぶって抜け出しましたが、見破られて敵兵に鑓で突かれ討たれたともあります。
当時12歳だったとされる、火渡広家の遺児・火渡倉之介(火渡左助)は東禅寺に匿わられたと言います。
のち、父の忠義を称賛した、盛岡城主・南部利直に取り立てられて南部藩士になると、土淵に50石の所領を得ました。
火渡り左助は、山口内蔵助と名を改めて、その子孫は幕末まで続きました。
今回は時間の関係で登れませんでしたが、堀切や、2重の空堀などが残っているようです。
火渡館の駐車場はありませんが、火渡の石碑群のあたりの道路は広く、駐車禁止ではありません。
ただ、危険防止のため、カープには止めないよう、お願いしたいと思います。
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