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佐賀城とは
佐賀城(さがじょう)は、別名を、村中城、佐嘉城、栄城、沈み城、亀甲城と言う輪郭梯郭複合式平城で、佐賀県佐賀市にあります。
日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれています。
いくつもの外堀が巡られており、敵が攻めてきた場合には、主要な部分以外は「水没」させることができる仕組みになっていた為「沈み城」とも呼ばれます。
もともとは、龍造寺家の本拠地で、1569年に大友宗麟が筑後・吉見岳城に本陣を置いて佐嘉へ攻め込んでいます。
この時は、村中城(佐賀城)が包囲されますがは和議となりました。
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そして、再び、1570年に大友宗麟が大軍を派遣した際には、龍造寺隆信が村中城(佐賀城)に籠城しています。
この時、鍋島直茂が夜襲に撃って出て、今山の戦いとなり、総大将・大友親貞を討ち取りました。
その後、龍造寺家の実権を握った鍋島直茂が実質的な政務をすべて取り仕切り、1600年、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、久留米城主・小早川秀包、柳川城主・立花宗茂を攻略するなどした功績により、所領が安堵されています。
鍋島直茂は1602年から村中城を拡張する形で大改修を開始し、鍋島勝茂の時代となる1611年に佐賀城が完成しました。
村中城の本丸があった場所は、佐賀西高校一帯と考えられています。
ここでお断りしておきますが、撮影した写真は大雨警報中で、大粒の雨が写真に入り込んでいます。ご了承願います。
天守台には4重5階の望楼型天守がありましたが。1726年(享保11年)に焼失したあと再建されることはありませんでした。
下記は佐賀城の天守台への入口で、実際に天守台まで登れます。
小倉城の天守に似た四層五階の天守があったそうです。
下記は佐賀城の鯱の門で国の重要文化財です。
鯱の門は、1836年に再建された現存遺構で、本丸の表門となります。
後日、雨が降っていない日に立ち寄り、雨粒が入っていない門も撮影して参りました。
鯱ノ門の「鯱」(しゃち)は、瓦ではなく、細かくした銅版を貼り付けると言う加工が施されています。
テレビを見ていますと、たまにしゃちほこは天守だけにあると言う間違いにて説明されたりしますが、このように、寺院や一般家屋でも屋根に用いられる事があります。
銅板の代わりに金板を貼れば、金の鯱と言う事です。
門の扉には、明治7年(1874年)の江藤新平・島義勇ら中心にした「佐賀の乱」での銃弾跡が無数にあります。
南西隅櫓台は、六角形に整形した石を使う亀甲積(亀甲乱積)と言うもので大変珍しいです。
佐賀城本丸歴史館では本丸御殿が復元されいます。
建物の入り口前には、大砲の模型も置かれていました。
有料でもおかしくないのですが、建物内部は「無償」で公開させています。
ただし、藩主の居間「御座間」は残存建物です。
これは10代藩主・鍋島直正が再建したもので、藩主の居間として使われていました。
のち、大木公園に公民館として移築されていたものを、本丸御殿復元り際に再度移築したと言う事になっています。
本丸御殿の建物内部は、撮影が許可されている展示物で、撮影禁止の展示物がありますので、ご注意願います。
本丸御殿は入場料無料ですが、出口に「募金箱」が設置されており、満足度に応じた寸志制となっているのもなかかな良い趣向です。
下記は駐車場付近に新しく設置された鍋島直正の銅像です。
佐賀城への交通アクセス
佐賀城へのアクセス・行き方ですが、下記の地図ポイント地点が無料駐車場の入口となります。
下記は佐賀・高伝寺にある龍造寺政家の墓(龍造寺肥前守政家の墓)です。
下記は龍造寺高房の墓(龍造寺駿河守高房の墓)となります。
以上、訪問するたびに広場が新しくなっている佐賀城でした。
この記事は当方運営の戦国武将列伝Ωより再編集したものとなります。
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