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三河・牛久保城の解説~常在戦場(生きるか死ぬかの過酷な場所)


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三河・牛久保城とは

牛久保城(うしくぼ-じょう)は豊川河岸の段丘を利用して築かれた平城で、古図によれば二重(一説には三重)の水堀に囲まれた城館です。
現在は約2km程東に離れた所を流れる豊川ですが、幾度となく氾濫を繰り返しながら流れの位置を変えており、当時は牛久保城の眼下を流れていたようです。

その豊川を遡ると、河畔には野田城長篠城などがあり、その先は南信地方へと抜けるため、古来より木材等の物流運搬として使われており、東西を結ぶ街道と豊川が交差する地点を望む位置にある牛久保は古来より交易の要所として機能していました。


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律令時代から平安時代にかけては、段丘の上には国分寺や国分尼寺や三河一宮の砥鹿神社を始めとした多くの寺社仏閣が建てられ、三河の中心地として機能しており、鎌倉時代に入ると鎌倉街道が整備されて一帯は豊川宿として繁栄して行きます。

三河国分尼寺跡
〇国分尼寺跡

永享10年(1438年)永享の乱で敗れた一色時家(いっしき-ときいえ)は三河守護であった一色義範(いっしき-よしのり)を頼り三河国に落ち延びて、長山一色城(ながやま-いっしき-じょう)を築いて根拠地としますが、翌年の永享11年(1439年)になると時の将軍の足利義教(あしかが-よしのり)は一色時家を匿った罪で一色義貫が滅ぼされ、細川持常(ほそかわ-もちつね)が三河守護になると三河国は内戦状態に突入します。

一色城
〇長山一色城

歴史

長禄年間(1457年~1460年)に入ると岩津城(いわづ-じょう)を拠点とした松平信光は、内戦の続く三河一帯に対して攻勢を強めて勢力を拡大していく事に対し、守護職の権威は次第に下がっていきます。
文明9年(1477年)一色時家は被官の波多野全慶(はたの-ぜんけい)の謀反により殺害されますが、明応2年(1493年)同じ被官であった牧野古白(まきの-こはく)は灰塚野合戦によって波多野全慶を討ち取り旧主の仇を報じました。
この戦いの結果、牧野古白は長山一色城への入城を果たします。


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豊川西岸の地を確保した牧野古白は永正2年(1505年)豊川東岸に今橋城(いまはし-じょう)を築いて居城を移し、さらなる勢力の拡大を図ります。
翌永正3年(1506年)に今川氏との争いの中で牧野古白は討ち死にを遂げますが、跡を継いだ牧野信成(まきの-のぶしげ)は一族の牧野成勝(まきの-なりかつ)に命じて一色城の南西に新たな城を築かせました。
城館としてあった一色城とは異なり、台地の先端部分を利用して築かれた牛久保城は南東側は豊川河畔を望む崖となっており、北西側は本丸を囲むように二重の堀を廻らせた城塞とも言える形式で築かれいます。
時が経つにつれ、周囲には武家屋敷や寺院が配され、街道沿いには民家が立ち並ぶなど、牛久保城は城下町の先駆けとも言える要素を備えて拡大の一途をたどっていきます。

享禄2年に岡崎城(おかざき-じょう)の松平清康(まつだいら-きよやす)は東三河へと侵攻して今橋城は陥落し、城主の牧野信成も戦死を遂げますが、松平清康の死去により東三河一帯には今川氏が侵攻。牧野氏は今川氏の支配下に入る事となります。

永禄3年(1560年)今川義元(いまがわ-よしもと)が桶狭間で討ち死にを遂げると、松平元康(まつだいら-もとやす)が力を持ち始め、三河一帯は松平氏と今川氏の紛争が激化していきます。
その流れは東三河の有力豪族である牧野氏にも波及していき、永禄4年(1561年)には牧野氏の中でも今川氏の支配を嫌った牧野平左衛門父子らが牛久保城主である牧野保成(まきの やすしげ)に反旗を翻しますが、牧野保成とその配下である稲垣重宗、池田小左衛門、陶山善六らが蜂起勢を討ち果たし、後に今川氏真(いまがわ-うじざね)から感状が送られ、敗れた牧野平左衛門の所領も彼らに分け与えられています。


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しかし、今川氏の東三河一帯への影響力は低下の一途を辿り、永禄5年(1563年)になると、松平軍は牛久保城の北側6km程の位置にある三河一宮の砥鹿神社(とが-じんじゃ)の南に一宮砦(いちのみや-とりで)を築いて軍勢を入れます。
翌永禄6年(1564年)今川氏真は一万を超える軍勢を率いて牛久保城へ入城し、長山一色城跡に建立した大聖寺で今川義元の三回忌法要を営みますが、松平元康は千五百騎余を率いて一宮砦に後詰として出陣し、牛久保城攻めを敢行。
城主の牧野保成は討ち死にをし、今川軍は駿河に引き上げる事となりました。

今川義元の墓
〇今川義元墓所

永禄7年(1564年)3月には松平軍によって吉田城が落城し、今川氏の影響が東三河一帯から排除された事を受け、永禄8年(1565年)牧野成定(まきの-なりさだ)は徳川氏に帰属する事になり、翌永禄9年(1566年)の4月に岡崎城で所領を安堵された事により、松平氏の三河統一が決定的になりました。
同年10月、牧野成定が病死すると嫡子の新次郎は徳川家康の一字をもらい受け、11歳で元服して牧野康成(まきの-やすなり)を名乗り、酒井忠次(さかいーただつぐ)麾下として長篠の戦いなど数多くの合戦に参戦。
天正年間の駿河侵攻に際しては諸城の在番を歴任し、徳川家康の東海道平定に寄与。

天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に伴い、牧野康成は上野大胡2万石の大名となり、牛久保城は吉田城に入った池田輝政(いけだ-てるまさ)の家臣である荒尾氏が城番として入城。
関ケ原合戦後は天領となり、元禄12年(1699年)に廃城となりました。

牛久保城跡
〇城址

交通アクセスと登城

推奨ルート:
※いずれも駐車場は無いため、公共交通機関での訪問となります。

JR飯田線牛久保駅→(徒歩1分)→牛久保城跡→(徒歩5分)→大聖寺(今川義元の墓)→(徒歩1分)→長山一色城跡

牛久保駅を出てロータリーを右に進み踏切を渡ったすぐ脇の公園内が牛久保城址となります。

牛久保城看板
〇牛久保城の看板

牛久保城跡から再度踏切を渡り、2本目の路地を右に曲がった先に、大聖寺があります。
境内には一色時家と今川義元の墓が残されています。

一色時家の墓
〇一色時家の墓

大聖寺を出て、さらに進んだ先には、一色城の土塁跡が残されています。
※一色城の土塁は企業の敷地内に存在していますので、了承を得てから入るようにしてください。

一色城土塁
〇一色城の土塁(遠景)

その他関連施設等
・大林貞次屋敷
県豊川市牛久保町八幡口44
武田信玄の軍師として名高い山本勘助の養父の屋敷跡で、現在は寺町公園になっています。
牛久保駅から徒歩5分

大林定次屋敷
〇公園入口に立つ標柱

・牧野城
豊川市牧野町丁畑
応永年間(1394年~1427年)将軍足利義持(あしかが-よしもち)の命によって、田口成富が地頭に任命され、四国の讃岐から移り住んで来た際に構えた城館。

牧野城城址碑
〇牧野城城址碑

牧野城の看板
〇牧野城看板

・讃岐屋敷
豊川市牧野町柳貝津48
永正2年(1505年)に牧野古白(成時)が吉田城を築いて、牧野城から移り住む際、長男の牧野能成(まきの-よしなり)は牧野城を取り壊して新たに居館を構えました。
牛久保城主の牧野康成が徳川家康に従い、関東に移り住んだ後も、牧野能成の一族は屋敷に留まり、明治維新を迎えています。
昭和34年(1959年)の伊勢湾台風によって屋敷は倒壊しましたが、門だけは残ってさぬき屋敷公園に現存しています。

讃岐屋敷の碑
〇讃岐屋敷の碑

讃岐屋敷門
〇讃岐屋敷の門

(寄稿)だい

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だい

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愛知県在住の会社員です。
休日には県内の城巡りをしており、愛知県内にある1,300以上ある城館を全て制覇する事が当面の目標。
モットーは「どんなマイナーな土地にも歴史はある!」
愛知県出身の有名武将は数多く存在しますが、それ以上にマイナーな武将や城も多数存在しています。
そんなマイナーな武将やお城を歴史好きの皆様にご紹介できるような記事を書いて行きたいと思います。

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