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豊島清光館(豊島氏館)の解説~豊島清元の居館で豊島氏発祥の地

豊島清光館(豊島氏館)

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豊島清光館(豊島氏館)とは

豊島清光館(としまきよみつやかた)は、東京都北区豊島にある平城(館跡)。
この豊島は豊島氏発祥の地と考えられるが、そもそも豊島氏は秩父党の一族。
秩父氏からは畠山氏、小山田氏、稲毛氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏、葛西氏などの多くの庶流を排出した。
豊島氏は、秩父武常が武蔵国豊島郡に入り豊島氏を称したことに始まる。

豊島清光館(豊島氏館)

武蔵・平塚城も豊島城(豊島館)とされるが、こちらの豊島清光館である豊島氏館のほうは恐らくちょっとあとの時代のものであろう。
豊島氏館は、豊島氏4代目と言われる豊島清光の居館である。
なお、近年の研究では、豊島清光のことを豊島清元(としま-きよもと)と言うのが正しいらしい。

子の豊島清重は、葛西御厨を継いで葛西三郎を称し、葛西氏の祖となった。
葛西清重は、奥州藤原氏との奥州合戦で活躍し、奥州総奉行に任ぜられたので、東北での葛西氏としても繁栄している。


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1180年、源頼朝が安房で再起を図ると鎌倉を目指し、9月3日、小山朝政・下河辺行平・豊島清元・葛西清重に参陣するよう書状を出した。
そして、千葉常胤上総広常が合流し10月2日に隅田に宿泊。
源頼朝らが隅田川を渡ると、豊島権守清光は小山氏・下河辺氏・葛西氏らと源頼朝に臣従した。
豊島清光(豊島清元)は、子の豊島清重(葛西清重)をつれて、足立遠元とともに源頼朝の軍勢に加わったという。
なお、平家側だった畠山重忠河越重頼、江戸重長らを説得したのは葛西清重であった。
こうして大軍になった源頼朝らは、松橋から府中の大國魂神社、町田を経由して鎌倉に入った。

子の豊島清重は、葛西御厨を継いで葛西三郎を称し、葛西氏の祖となった。(葛西清重館がある)
葛西清重は、奥州藤原氏との奥州合戦で活躍し、奥州総奉行に任ぜられたので、東北での葛西氏としても繁栄している。

清光寺(せいこうじ)は真言宗豊山派の寺院であり、開基は豊島清光(豊島清元)であり、豊島清光の館が付近にあったとされている。

なんでも、豊島清光(豊島清元)の2男・豊島清康が荒川で水練中に溺死したそうで清光寺を創建したともされる。

清光寺

そのほか、娘・清姫のために創建した、祖父・豊島康家が開基ともされるが、清光寺には豊島清元の木像もあるようだ。

鎌倉時代の豊島氏は武蔵・平塚城、そして石神井城に本拠を移したが、室町時代に太田道灌によって滅ぼされた。
戦国時代の末期、豊島明重が清光寺を再興されている。


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武蔵国(豊島郡)と下総国(葛飾郡)との国境は隅田川であるがが、昔は入間川の下流部が隅田川であった。
1590年、徳川家康が江戸城に入ると江戸は急速に発展。
そのため、江戸時代に入ると水上交通網の大規模整備が開始され、荒川と隅田川の流れも変わっている。

交通アクセス

豊島清光館(豊島氏館)への行き方だが、地下鉄南北線・王子神谷駅から徒歩10分。
清光寺の参拝者用駐車場を短時間拝借したが、道路は狭く一方通行もあるので注意。

駐車場の場所などは、当方のオリジナル関東地図にて、ポイントしている。
スマホで表示して、目的地としてタップし「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でも、ナビとして使用可能。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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