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中田加賀守屋敷とは
中田加賀守屋敷は、神奈川県横浜市保土ヶ谷区東川島にある丘城で、現在は館跡に正観寺がある。
中田加賀守は戦国時代の武将で、小田原城の北条家に仕えていた。
なお、伊勢新九郎(北条早雲)が相模に入る前から、中田氏は3万石程度も領地を得ていたともされ、大身だったとも考えられる。
太田康資の家臣になった中田一族もいると言うので、室町時代には上杉氏や太田氏に従っていたのであろう。
小田原所領役帳にゆると中田加賀は、川嶋・矢上などで15貫870文。
中田藤次郎 渋口(子母口)で15貫810文。
知行地は減らされていたようだが、柴崎但馬守など家来と見られる武将も見受けられる。
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小机城の笠原康勝の与力なのか?、傘下に加えられたのか?、小机衆に組み込まれていたようで、武蔵・矢上城も別名は中田加賀守館となっている。
井田城も中田加賀守の持ち城とされる。
小机衆のメンバーは下記の通り。
笠原氏、曽弥外記、神田次郎左衛門、市野助太郎、増田満栄、座間豊後守、村嶋豊左衛門、二宮義忠、岩本和泉守、高田玄蕃、中田加賀、長谷川為久、沼上出羽守、石原靱負、大曾根飛騨守。
一族と見られる中田氏としては中田修理亮がおり、小机城の兵糧米管理など行っていたようだ。
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1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、小机衆は小田原城にて籠城したが中田加賀守は討死したようで、日吉の保福寺に葬られたとある。(諸説あり、敗戦後亡くなったとも)
その中田加賀守の子・中田藤左衛門は、川島村に陣屋を構え名主となった。
江戸時代の1625年に正観寺を建立すると父・中田加賀守の分骨を納めたと言う。
正観寺の前を通る細い道路は旧八王子道であり、鎌倉道に交差する交通の要所だ。
徳川家光は、由緒ある家系の百姓らに、家系図を差し出すように命じたとされる。
このとき、中田藤左衛門が中田家の系図を献上すると、長男が500石の旗本として取り立てられたとある。
<注釈> 徳川家光が系図提出を命じた事実はないため伝承としてご理解願いたい。
交通アクセス
中田加賀守屋敷がある場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂ける。
ただし、現地の道路が狭いので、クルマの場合付近のコインパーキング利用をお勧めしたい。
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