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伊豆・丸山城 富永山随(富永左兵衛尉)の伝説

伊豆・丸山城

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伊豆・丸山城

伊豆・丸山城は静岡県田方郡土肥町八木沢にある山城(海城)で、標高は110m、比高110mとなります。

戦国時代となり、伊豆の西海岸には、小田原城の北条家の「北条水軍」の城がいくつもありました。
この伊豆・丸山城は、北条水軍の中でも最大勢力とされている、高谷城主・富永氏の支城として築かれたようで、北条水軍の基地のひとつとして使用されていました。

この富永氏は三河国設楽郡発祥の御家人で、応仁の乱の前後に伊豆の現在の土肥温泉に移住したと考えられています。
本拠である土肥に富永氏館があり、背後の高谷城は詰めの城と言う事でしょう。


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1493年、北条早雲堀越御所を襲撃して茶々丸を追放した際に、いち早く恭順したのが富永政直(富永左衛門政直)で、以後、北条家では重臣として迎えられました。
北条早雲が韮山城を本拠とした際には、興国寺城を富永政直が任されています。
富永政直(とみなが-なおまさ)は、水軍を率いて活躍しており、1524年、北条氏綱からは江戸城の城代として抜擢されています。

1556年、富永氏は、相模国三浦三崎沖にて里見家海賊衆と海戦にも水軍を出しています。

1563年、太田康資が離反して上杉謙信に寝返えろうとした際に失敗しますが、翌1564年、上杉謙信から太田康資を助けようとして、里見義弘が出兵します。
そして、1564年、下総の国府台の戦いにて富永政直は討死しました。

その子で1509年生まれの富永康景(とみなが-やすかげ)は、富永直勝(とみなが-なおかつ)とも言いますが、西土肥と相模の西郡飯田など1383貫を知行しています。
富永直勝の弟・冨永善左衞門は49貫とあります。
そして、北条氏政の時代に富永直勝(富永政辰)は、北条五色備の青備えの大将となっており、江戸衆を率いて五家老に列しました。
江戸城には、3人の武将が入っており、三の丸が太田太勝売(太田大膳)、二の丸は遠山綱景でしたが、本丸は富永直勝(富永康景)が任されていますが、栗橋城主や葛西城主も兼ねていたようです。

1564年、国府台の戦いの際には、富永直勝(富永康景)も父と参じており、遠山綱景と共に北条綱成が率いる本隊よりも先行して江戸川を渡河しています。
しかし、父同様に、富永直勝(富永康景・富永政辰)も討死したとされています。


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家督は、1554年生まれの子である富永政家(とみなが-まさいえ)が継いでいますがまだ11歳だったと考えられます。(17歳とも)
ただし、最初、富永孫四郎政家は江戸城主を務めたようです。
富永山城守政家は、戦死した父の菩提を弔うため、土肥に清雲寺も創建しています。

1577年からは、土肥・天正金鉱の採掘を開始。
しかし、北条氏直と豊臣家との関係は悪化し、1579年に、梶原景宗が伊豆・長浜城に着任し、北条水軍の事実上の統括者となりました。

また、八木沢には新たに港が儲けられて、大型の舟も入れるようになったようです。
富士山もとても綺麗に見えるところです。

駿河湾

そして、1584年には富永政家が韮山城主となっています。

ちなみに、名胡桃城奪取をした猪俣邦憲の出自は富永氏で、1580年頃まで、富永能登守助盛と称していました。

激戦となった山中城の戦いにも参加していたようで、10以上の傷を負い小田原城に退いたとされてまいす。
嫡男・富永直則は徳川家に仕え、江戸時代には旗本となっています。
次男・富永勝安は結城秀康の家臣になりました。

富永山随

この頃、八木沢の丸山城主には、1520年生まれの富永山随(とみなが-さんずい)なる一族と思われる武将が城主を務めています。
富永山随は、富永康景の弟・富永政範(富永左兵衛尉)だと考えられます。

1580年には、武田水軍と駿河湾海戦も行いました。

丸山城は、現在「出丸」と呼ばれる八木沢の海へ突き出た丸山だけの小さな海賊城だったようですが、豊臣水軍の来襲に備えて、急ピッチで丸山城の詰め部分の大改修が施されたようです。

そして、1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際には、海賊衆を率い奮戦しましたが、主力は他の城に入っていたようで衆寡敵せず、工事中だった丸山城は落城しました。

伊豆・丸山城

ただし、丸山城主の富永山随は、箱根にある山中城の守備についていたため、丸山城は留守にしていたともされます。

北条家が滅亡したあとに、富永山随は井伊直政の仲介を受けて徳川家康の家臣となり、文禄元年(1592年)7月11日に南伊豆の加増野(かぞうの)にて病死したと伝わります。
また、1606年に富永山随が加増野(下田市加増野)を馬にて通過した際に、挨拶もせずに馬上の無礼をはたらいたとして、加増野の領主で家臣の小林上野守が主君を見間違えて弓矢で射殺したともあります。
そして、この小林上野守はその場で自害したと言います。

ただし、富永山随は丸山城に残っていたとする説もあり、落城の際に家臣と共に山伝いに脱出に成功したとあります。
しかし、鶏(ニワトリ)の鳴き声により、潜伏していたところを発見されて、斬首されたともあります。
と言う事で、死没年やその後はに関しては諸説あり、よくわかりません。


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丸山城への交通アクセスですが、クルマの場合、丸山スポーツ公園の管理事務所脇にある無料駐車場(当方のオリジナル地図にてポイント)が利用できます。
駐車場と国道に挟まれた狭い道を降りて行った先に、出丸(古い丸山城)への登り口があります。
ただし、詰めの城(本丸)への登城口は、国道沿いからとなります。
所要時間ですが、両方散策すると90分くらいは必要だと思います。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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