宇屋谷城 (うやだに-じょう) は、島根県出雲市斐川町神庭にある丘城です。
標高40m、比高20mほどで、神代神社の境内(参道にある手水鉢)から、北に伸びる尾根上に築かれています。
宇屋谷城は、ほぼ単郭の城跡のようですので、宇屋谷館と言った方が良いかも知れません。
明瞭な土塁や堀切が残っているようで、錦織家旧跡との看板もあります。
宇屋谷城に関して、調べても、詳しくは不明ですが、錦織氏の居城(居館)だった可能性は高いでしょう。
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すぐ脇の神庭・神代神社は、錦織氏が祀官を務めておりますが、応仁の乱で敗れた錦織右京大輔清次が、都落ちして出雲に逃れると、出雲臣家の養子となったとあります。
そして、姓名を自身の錦織とし、文明2年(1470年)に、米原氏の家臣になったと伝わります。
これ以上のことは不明です。
神代神社 (かむしろ-じんじゃ) は、荒神谷遺跡の東側、出雲ロマン街道(簸川南地区広域農道)沿いにあります。
鳥居がない代わりに灯籠を建てている、一風変わった神社です。
石段上にあり、登るのは大変なようですので、参拝まではあきらめました。
江戸時代の延宝元年(1673年)、南に位置する、出雲・高瀬城の米原氏の子孫によって八幡宮が勧請・合祀されています。
神庭・神代神社の祭神は、宇夜都辨命(宇夜都弁命)(うやつべのみこと)ですが、出雲風土記にしか登場しない謎の神様(女神)です。
出雲国風土記では出雲郡の健部郷(たけるべのさと)の話で「神代社」とあり、神代の時代にこの地に天降り、荒れ地を開拓された、ありがたい神様として紹介されています。
この女神様が降臨されたことが、地名由来となり、この辺りを宇夜谷(うやだに)と呼ぶようになった明記されています。
神代神社背後の権現山では、約10分登山すると、磐座(いわくら)があるのですが、その石神と呼ばれる岩に、宇夜都弁命()が降臨したと言う事です。
宇夜の女と言う読み方が、「ウヤツベ」だったと言う事ですね。
また、出雲風土記では下記のような記述もあるようです。
日本書紀引用景行天皇の御子「ホムチワケ」は言葉を話さなかった。
ある日、白鳥が空を飛ぶのを見て「あれは何ですか?」と突然言葉を話したので、天皇は白鳥を捕まえてくるように命じた。
鳥取という家臣はその白鳥を追いかけ、出雲の「宇夜谷」でようやく捕まえた。
白鳥と触れ合ったホムチワケは言葉を話せるようになった。
上記は、誉津別命(ほむつわけのみこと) の話として、日本書紀にも似たような話が出ています。
その後、改めて「健部」(建部)と名づけたわけは、纏向の槍代の宮で天下をお治めになった天皇(景行天皇)がおっしやったことには、「わたしの御子、倭健の命の御名を忘れまい」と仰せられて健部の制を定め給うた。その時、神門の臣古祢を、健部とお定めになった。そこで健部の臣らが、大昔から今になるまで、ずっとここに住まいしている。だがら、健部という。」とあるようです。
平安時代に、神庭・神代神社は、延喜式内社として紹介されています。
日本全国では旧暦10月を神無月と言いますが、出雲では八百万の神々が出雲に参集されるとして「神在月」と言う、特別な11月の訪問でした。
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