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二本松城 壮大さと魅力 素晴らしい石垣と縄張り【日本100名城】

二本松城

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二本松城とは

二本松城(にほんまつじょう)は、福島県二本松市郭内にある標高233m付近となる麓の居館部分と、標高345m白旗が峰に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城で、国の史跡です。
別名は霞ヶ城・白旗城と呼ばれ、日本100名城にも選ばれています。
比高は112mで、天守台からの展望も良くここは「山城」だと感じましたが、北側は峰続きですので、純粋な山城とは言えないため、分類上は平山城なのかも?知れません。


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その北側は、二本松城防御の最大の弱点となります。
この尾根が堀切で遮断されていたと考えられる部分から、まず二本松城の本丸へと、尾根伝いに入ってみました。
下記は、その尾根に登る途中、中腹にある龍泉寺付近から撮影した本丸遠景です。

二本松城

道を登り切った交差点から、細い道に入りますと本丸近くへの道となります。
昔は、堀切があったのでしょうが、今は土塁程度しか認められませんでした。

二本松城の北の尾根道

その尾根道を進むと、本丸脇の乙森跡と言う駐車場に出ます。

二本松城・乙森跡

最初に二本松城を築城したのは畠山満泰(二本松満泰)で、1442年頃と推定されています。

その後、二本松氏は米沢城主・伊達政宗の圧迫を受け、1585年10月、伊達政宗に降伏します。
しかし、二本松義継(畠山義継)は伊達輝宗に礼を述べる為、宮森城を訪問しますが、逆に伊達輝宗を拉致して二本松城にて籠城しようとしました。
そのため、伊達政宗は人質になってしまった父・伊達輝宗もろとも、二本松義継(畠山義継)を高田原にて鉄砲で撃ちかけた粟ノ須の戦いは良く知られる話です。
別のページにて、粟ノ須の戦いと粟ノ須古戦場跡もご紹介致しております。


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その後、二本松家は、遺児・二本松国王丸を立てて二本松城にて籠城したため、怒り狂った伊達政宗は父の初七日が明ける、13000の兵にて二本松城を激しく攻撃します。

11月に入ると、二本松家を救援するため、佐竹義重佐竹義宣・蘆名亀王丸・二階堂阿南・岩城常隆・石川昭光・白川義親・白川義広・相馬義胤須賀川城まで進出したため、伊達政宗は、二本松城の包囲部隊を残し、7000を率いて岩角城から本宮城に入りました。

そして、阿武隈川の支流である瀬戸川に架かる人取橋付近にて、伊達勢7000と、連合軍30000との戦い「人取橋の戦い」となった訳ですね。
伊達政宗は辛うじて本宮城に撤退し、翌年に改めて二本松城を攻撃すると耐え切れず、二本松勢は降伏しました。

その後、二本松城主となったのは片倉景綱(片倉小十郎)、次に伊達成実で、伊達政宗は二本松城を足掛かりに、奥州制覇をして行くのです。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めのあと、石田三成浅野長政が検地の為、二本松城を訪れています。
1591年に伊達家は岩出山城に転封され、二本松城は会津若松城主となった蒲生氏郷の支城となり、蒲生郷成や町野重仍が二本松城主となって、城を改修しました。


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1598年、上杉景勝が会津に入ると、二本松城主には下条忠親(東城)、秋山定綱(西城)が就任していますが、1600年、関ヶ原の戦いのあと、上杉家は米沢城へ移されたため、会津に蒲生秀行が復帰し、二本松城主には梅原弥左衛門(東城)、門屋助右衛門(西城)が城代となっています。
ちなみに、東城は松森館で、西城は新城館と言う事らしいです。
松森館は、本丸から東側の中腹にあり、新城館は、本丸から西側の中腹にあります。

1622年には、本山豊前・本山河内が二本松城代となり、のちには外池信濃守が入っています。

1627年からは、会津に加藤嘉明が入り、二本松城主には松下重綱が下野烏山城から入り、二本松藩5万石となりました。
その後、二本松城には加藤嘉明の次男・加藤明利が入りましたが、1643年に改易され、白河小峰城から丹羽長秀の孫・丹羽光重が10万700石で二本松藩主となります。
この時、二本松藩の藩庁として山麓・麓の大改修が行われ、本丸には石垣が積まれました。
以後は、明治維新まで丹羽家が続いています。

二本松城の見どころ

ここからは、写真も交えて、二本松城の見どころも、ご紹介してみます。

二本松城の本丸石垣

東日本大震災では、二本松は震度6弱を記録し、石垣が崩れる事はなかったそうですが、かなり「ズレ」や「吐出」が生じたそうで、その後に修復されています。

二本松城の本丸石垣

本丸直下に穴太積みによる大石垣で、豊臣色が濃いですね。

二本松城の本丸

山頂部分が中世に築城された部分で、山麓と麓が近世であるため、見どころが山頂付近と麓の2箇所に別れています。

二本松城の本丸

恒例でございますが、各写真は拡大表示も可能です。

二本松城の本丸

また、写真は「スライド」させて連続的にご覧頂く事も可能です。

二本松城の本丸

1591年の奥羽仕置では、総大将の豊臣秀次と、徳川家康も二本松城にて滞在しました。

二本松城・本丸

雲に覆われていますが、天気が良ければ安達太良山の展望も素晴らしいことでしょう。

二本松城・本丸

と言う事で、5年後、再度、訪問させて頂きました。

二本松城の本丸から安達太良山を望む

ちょうど紅葉の時期でして、二本松城の周辺も、とてもきれいでした。

二本松城の紅葉

もう1枚だけ、オマケで、本丸の石垣手前部分の紅葉です。

二本松城の本丸

山頂の白旗が峰付近は、本城・東城・西城と3つの曲輪があり、石垣の高さと言い見事です。
※5億3千万円掛けて一部の石垣は補修・復元されています。

それにしても、本丸を覆う石垣も非常に雰囲気が良いですね。

二本松城・本丸

下記は、二本松城代・丹羽和左衛門と勘定奉行・安部井又之丞の自刃の碑です。
戊辰戦争の際に、自害しました。

丹羽和左衛門と安部井又之丞の自刃の碑

3重の天守があったとの説もありますが、天守に関しての記録は無く、発掘調査でも建造物の跡は見つかっていないそうです。

二本松城の本丸

本丸の部分から下がった中腹には「大石垣」があり、東北地方で最古の野面積み石垣となっています。

二本松城の大石垣

その高石垣の下付近には「日影の井戸」があります。

日影の井戸

「日影の井戸」は千葉県印西市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」とならび、日本3井戸に数えられます。

日影の井戸

曲輪も良好な状態で残っています。

二本松城

さて、山頂付近の駐車場から車で、麓に下って、更に二本松城を見て周ります。

二本松城の尾根道

その前に、尾根道沿いの写真を載せておきますね。

二本松城の尾根道

山頂部から各支尾根に曲輪や城門が並び立ち、谷間には土塁と堀が築かれています。
また、尾根筋と谷間も「城域」として取り込んでいる「馬蹄形城郭」と言う珍しい縄張りなのが二本松城です。

二本松城

麓に到着しました。
下記は、江戸時代の建造物「洗心亭」がある丘を撮影したものです。

二本松城の麓

ただ、洗心亭は工事で付近への立ち入りが禁止だったため、すみません、写真はありません。

二本松城の附櫓

気を取り直して、箕輪門へと歩いて行きます。
この高石垣は約10m前後あり、加藤嘉明の時代とされています。

二本松城の箕輪門

戊辰戦争で焼失していた箕輪門と附櫓は、1982年に2億円で復元されました。

二本松城の箕輪門

入口の右脇には二本松少年隊顕彰碑があります。
なんでも、市民から寄付を集めて設けられたそうです。

二本松少年隊顕彰碑

1868年、戊辰戦争の際には、二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦いました。
しかし、1868年7月29日、新政府軍が二本松城下に殺到し、大壇口の戦いにて、のち「二本松少年隊」と呼ばれた12歳~17歳の少年兵62名が出陣し、16名が戦死しています。

二本松城の石碑

この二本松の戦いでは、二本松城の多くの建物が焼失したそうです。
なお、二本松少年隊は急遽結成された部隊であったため、戦いとなった際にはまだ名前がなく、戦後に「二本松少年隊」と名付けられたそうです。

二本松城の箕輪門

二本松城の箕輪門は、結構規模も大きいです。

内藤四郎兵衛戦死の地碑

上記は、門の近くにあった内藤四郎兵衛戦死の地碑です。

二本松城の箕輪門

上記が「箕輪門」です。

箕輪門

なんで、箕輪門と名付けられたのか?、気になって調べてみましたところ、二本松城下の箕輪村の山中にて、樫の木を切ったからと言われているそうです。

箕輪門

上記は、箕輪門の裏側(内側)から撮影したものです。

二本松城の桝形

箕輪門から三ノ丸への入口は枡形になっていました。

二本松城の本坂御殿跡

上記は本坂御殿跡となります。

二本松城の庭園

二本松城の三の丸上段から西側は、自然の地形を生かした庭園のようになっています。

二本松城

二本松城の「るり池」

二本松城の「るり池」です。

二本松城の「るり池」

二本松城の井戸

るり池の下段にある「霞池」へは、7段になっている「霞ヶ滝」にて水が落ちています。

二本松城の霞ヶ滝

とても水量が豊富な二本松城です。

二本松城の霞池

上記は、霞池です。

二本松城

さて、二本松城の麓の地区は、南側が小高い山にて覆われていて切通しには門が築かれていたようで、開口部は東側のみとなっています。
その東側には水堀や虎口を設けていたようです。

すなわち、麓地区の防御にも優れているだけでなく、外部からは麓の様子がわからないと言う設計にもなっていますので、一種の鎌倉のような防御体制になっています。

最後に、麓の東側駐車場付近にある戒石銘へと向かいました。

二本松城の戒石銘

戒石銘は、二本松藩・5代藩主である丹羽高寛公が、藩儒学者・岩井田昨非(いわいださくひ)の進言により、藩士の戒めとするため、刻ませた訓戒で、1749年3月に岩に刻まれたとされています。

二本松城の戒石銘

石碑には16字が4字4行にて「お前のいただく俸禄は人民の汗であり脂(あぶら)である。下民は虐げやすいが上天をあざむくことはできない」と言う意味が刻まれています。

二本松城

さて、二本松城から自宅に帰ってからの編集段階で、まだまだ撮影しなくてはいけないポイントがいくつも見つかりました。
二本松にはまだまだ見どころがありますので、また訪問すると思います。

しかし、福島に入りますと、あちこちの民家などで「除染作業」が行われていましたので、まだ震災の復興は続いています。

二本松城の駐車場

日本最大の菊の祭典「菊人形」でも大変有名なため、二本松城の無料駐車場は結構豊富にあります。
まずは、山頂(本丸)に最も近い駐車場をご案内致しますと、下記の地図ポイント地点がその駐車場への入口となります。
細い道を入って行くと、すぐに「砂利道」になりますが、道なりにずっと進んだ「乙森跡」(曲輪)が駐車場になっています。
天守台のある場所にはここからが一番近くて、高低差もあまりなく便利です。

麓の駐車場でお勧めなのは下記の場所となり、箕輪門など麓の史跡を見学するのに便利です。
ちなみに麓から天守台まで登ると高低差112mを、約15分登る事になります。
地図は縮尺をかえてご覧願います。

交通アクセス・行き方ですが、電車で二本松城を訪れる場合には、二本松駅から、二本松城の麓までは徒歩約15分~20分です。
ただし、二本松は坂が多く、山を一つ越えなくてはなりませんので、タクシーで山頂の方まで行き、降りながら見学する方法が良いかな?と思います。
二本松駅近くにはレンタサイクルもあり、ちなみに電動アシスト自転車もあるようです。 

駐車場の場所などは、当方のオリジナル東北地図にてポイントしております。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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