土佐・戸波城
とは
土佐・戸波城(へわ-じょう)は、高知県土佐市本村古城にある標高109m、比高90mの山城で、別名は、井野甫喜城、伊野甫喜城、伊乃保幾城、井場城、伊場城とたくさんあります。
最初の築城は不明ですが、戦国時代になると姫野々城主・津野元実の所領だったようです。
しかし、土佐一条氏の家臣で福井玄蕃に奪われていたようで、1517年に土佐・戸波城を、津野元実が攻撃するも、一条氏の援軍が現れて敗れ、のち津野氏は中村御所の土佐一条氏に降伏しました。
※一条房基の時である1543年にも津野基高が謀反を起こして攻撃を受けて降伏していますので、津野氏が降伏した時期に関しては、何通りかあることを補足しておきます。
その後、土佐・一条氏の家臣である長生氏が土佐・戸波城主を務めた時期もあったようですが、1569年に、長宗我部元親が吉良親貞らと落としたようで、一族である戸波親武が入りました。
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戸波親武(へわ-ちかたけ)は、長宗我部国親の弟・長宗我部国康の長男であり、戸波城を授かり、戸波氏を称したのは間違いないでしょう。
ちなみに、弟は、比江山城に入って、比江山親興(ひえやま-ちかおき)と名乗っています。
戸波親武は、長曾我部一族として活躍し、1584年には、重要な十河城主となり転進しました。
その後、羽柴秀吉の四国攻めでは、讃岐・植田城(讃岐・戸田城)で羽柴秀吉を迎え撃とうとし、伏兵も置きましたが、黒田官兵衛に見破られたともされています。
その後、まもなく、長宗我部右兵衛親武は死去したようで、家督は子の戸波親清が継いだようです。
戸波親清(へわ-ちかきよ)は、新陰流を学び、戸波流を興した剣術の達人です。
1575年、宿毛城にも入ったようで、宿毛右衛門太夫と一時改名しています。
1600年、関ヶ原の戦いにて石田三成に味方した長宗我部盛親が所領没収の改易になった際に、土佐・浦戸城での徹底抗戦を訴えています。
高知城に山内一豊が入ると浪人したようで、1615年、大坂の陣の際には、長宗我部盛親の元に馳せ参じました。
そして、八尾の戦いでは、二番槍の武功を立てますが、大坂城が落城したあと、1626年になって、関白・近衛信尋の推挙にて、藤堂高虎に150石で仕えて剣術指南役になったようです。
鍵屋の辻の決闘で名高い、荒木又右衛門が、1635年、渡辺数馬ともに、戸波親清に入門し、師匠と崇めています。
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土佐・戸波城の東を走る県道287号線沿いに戸波城址の石碑と案内板があるようですが、今回は、足摺岬まで行く時間の関係と、小雨で雨天と言う事もあり、土佐PA(下り線)からの遠景撮影に留めました。
このあとは、須崎城へ向かいました。
・吉良城 吉良親実 最後の土佐・吉良氏
・中村御所 (土佐・中村館) 一条教房
・長宗我部元親~5分で分かる長曾我部元親と四国統一
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