高知県

浦戸城 土佐の桂浜を見下ろす長宗我部氏の居城

浦戸城

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土佐・浦戸城(うらど-じょう)は、高知県高知市浦戸にある山城です。
高知を代表する景勝地「桂浜」(かつらはま)には、坂本龍馬の銅像もありますが、その背後にある山が、標高59mの土佐・浦戸城になります。

浦戸城

浦戸城は土佐湾から高知への海の玄関ともいえる入口にある城で、恐らくはかなり昔から城砦として機能していたと考えられます。


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戦国時代に入ると、本山城主・本山茂宗(本山清茂)が勢力を伸ばし、長浜城とともに浦戸城を整備しました。

浦戸城

その本山茂宗の死後、永禄3年(1560年)長浜城の戦いとなります。

長宗我部国親は、1560年5月27日、長浜城を夜襲して占領したため、本山茂辰と5月28日に戸ノ本の戦いとなります。
下記は、戸ノ本の戦いがあった場所にある石碑です。

戸ノ本の戦い

本山茂辰の兵力は2500で、1000の長宗我部国親・長宗我部元親(初陣・22歳)・長宗我部親貞(初陣・20歳)は劣勢でしたが優位に戦い、本山茂辰は浦戸城へ退きました。

浦戸城

長曽我部勢は浦戸城の南北の海岸線に舟を配置し水上を封鎖、また陸からも柵を設けて包囲体制を取りました。
下記は、鎮守の森公園の駐車場脇に再現された馬防柵です。
長宗我部元親の銅像がある公園ですね。

浦戸城の戦い

このように浦戸城は包囲されますが、長宗我部国親が急な病となったため撤退し、本山茂辰は助かりました。
なお、岡豊城に戻った長宗我部国親は、治療のかいもなく間もなく死去します。

この時、浦戸城は落城したとする説もありますが、以後、本山茂辰は朝倉城を本拠としており、浦戸城は放棄したのか、長曾我部家が手に入れた模様で長宗我部親貞(吉良親貞)が入り改修しました。
長宗我部親貞(吉良親貞)に関しては下記にて詳しくご紹介しています。

長宗我部親貞(吉良親貞)とは

その吉良親貞の兄・長宗我部元親はもともと体が弱かったとされますが、合戦ともなるとその活躍は目覚ましく、1564年頃には本山茂辰を降伏させました。
また、1569年には、安芸城主・安芸国虎を破り、1575年に土佐統一を果たします。

そして、更には四国をほぼ制圧した長宗我部元親でしたが、1585年、豊臣秀吉の四国攻めによって降伏し、阿波・讃岐・伊予は没収され土佐一国のみ安堵となりました。

1588年には、居城を豊岡城から、大高坂山城(高知城)に移しますが水害が多かったため、岡豊城に戻ったあと、1591年からは浦戸城を大改修して、本格的な本拠地にしています。

浦戸城

本丸には五間四方3層の天守も建てられたと言いますので、まさに土佐を統治する長曾我部家の居城と言えるでしょう。
豊臣秀吉の意向もあり、朝鮮出兵の海上基地としても改良が加えられたようです。

しかし、長宗我部元親のま死後、跡を継いだ長曽我部盛親は、1600年、関ヶ原の戦い石田三成に味方したため、所領没収となり、代わりに浦戸城は掛川城主・山内一豊に与えられることになります。


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この時、徳川家康は井伊直政の家臣を土佐に派遣して、浦戸城を接収させようとしましたが、竹内惣右衛門を中心とする一領具足らは身分剥奪を恐れて、浦戸城の引渡しを拒否します。
そして、長曽我部盛親に土佐半国か二郡を与えるよう要求しました。
これを「浦戸一揆」と呼びます。
一揆をおこした一領具足らは、長浜の雪蹊寺(せっけいじ)に滞在していた鈴木重好(井伊谷三人衆鈴木重時の子)を17000で包囲して銃撃したため、徳川家康が怒り、四国の諸将に鎮圧を命じました。

山内一豊は弟の山内康豊を派遣し、土佐・中村城代だった桑名吉成や吉田貞重も説得に参加します。
また、井伊直政は計略をもって、旧長曽我部家の重臣を使い、吉川善助・徳井佐亀之助・池田又兵衛・野村孫右衛門・福良助兵衛・歳岡彦兵衛・下元十兵衛・近藤五兵衛ら273名を討ち、首を塩漬けにして大阪に送ったと言います。
そして、竹内惣右衛門も討って出て討死し、50日間の浦戸一揆は鎮圧されました。


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その後、高石左馬助らの滝山一揆など、一領具足による反乱が起こっていますが、山内家は鎮圧しています。

このように一領具足ら長宗我部の旧臣は、土佐藩の上士・下士よりも低い身分の郷士として取り込み、幕末まで厳しい身分に置かれたのです。

翌年の慶長6年(1601年)1月に、ようやく山内一豊が浦戸城に入りました。
下記は浦戸城の本丸にある社ですが、本丸は狭いです。

浦戸城の本丸

このように手狭であったため、1601年8月より高知城の建設を開始し、浦戸城の資材や石垣などは運ばれ、1603年に浦戸城は廃城となっています。

現在、浦戸城の場所には、国民宿舎・桂浜荘や龍馬記念館などが建っており、遺構のほとんどは消滅しています。
ただし、唯一とも言える浦戸城の石垣が一部残されています。
下記の国民宿舎・桂浜荘の玄関より右側から、奥に見える従業員用の駐車場へ入っていきます。

浦戸城の石垣入口

その従業員用駐車場のさらに奥へと進むと、下記のような石垣が残されていました。

浦戸城の石垣

浦戸城への交通アクセス・行き方ですが、当方のオリジナル地図にて、坂本龍馬記念館の駐車場をポイントしておきます。
駐車場は坂本龍馬記念館などの駐車場を拝借できますが、小生が訪れた際には、建て替え中で、駐車場は離れた場所となりました。
桂浜の坂本龍馬記念館は、リニューアル・オープン後には浦戸城と長宗我部氏の展示も行われています。
個人的には、浦戸城の天守も再現して、坂本龍馬とダブルでアピールすれば、桂浜も四国の観光地トップになるのでは?とも感じますが、まぁ、そこまでの気兼ねは現時点では見受けられません。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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