高知県

吉良城 吉良親実 最後の土佐・吉良氏

吉良城




吉良城(きら-じょう)は、高知県高知市春野町弘岡上にある標高116mの山城で、比高は110mとなかなか堅固です。
別名は弘岡城、吉良峰城とも言います。
最初の築城時期に関しては、鎌倉時代の初期に、源希望(吉良八郎・吉良希望)が築いたとされます。
この源希望(みなもと-まれもち)は、源希義の次男で、父・源希義の兄は源頼朝、弟に源義経がいます。
祖父・源義朝が、平治の乱で藤原信頼に味方して敗れて命を落とした際に、子の源頼朝は伊豆、父・源希義は土佐へ流刑となり、土佐・介良荘に入りました。
そして、平田経遠の娘が産んだ子が、吉良城を築城したとされる、源希望(吉良八郎・吉良希望)です。





父は、源頼朝が挙兵した際に、土佐にて挙兵しようとしましたが、平重盛に従っていた土佐・蓮池城主の蓮池家綱と、平田俊遠が察知して討ち取られました。
しかし、吉良物語によると、源希望(吉良八郎・吉良希望)は、生き延びたようで、1194年、夜須行宗に連れられて、鎌倉幕府の源頼朝に拝謁しました。
当初、源頼朝は、弟の遺児だと信じなかったようですが、最後に認めると、土佐国吾川郡のうち数千貫と、三河国吉良荘(愛知県西尾市)のうち馬の飼場三百余貫を与えました。
こうして、源希望は、土佐・吉良氏の祖となり、吉良八郎・吉良希望と称した訳です。
また、母の実家になる平田経遠の子を取り立てると、大高坂山(現在の高知城)に居住させ、大高坂経興(大高坂氏の祖)と名乗らせたとされます。

南朝後醍醐天皇には、吉良希世・吉良希秀の兄弟が味方したとあり、伊予の河野氏らと行動をともにしました。
ただし、吉良希秀の孫・吉良希雄は、土佐守護・細川氏に寝返り、北朝勢の大高坂城を攻撃しています。
やがて、土佐・吉良氏は、土佐守護の細川氏に従い、吉良宣通は、細川勝元の軍勢に加わって、応仁の乱に参加しています。





1468年、一条教房中村御所に入ると、土佐・吉良氏も従ったようです。
1508年、吉良宣忠は、本山茂宗、大平元国・山田元義などと連合して、岡豊城長宗我部兼序を攻め滅ぼしました。
また、土佐南学の開祖と伝わる南村梅軒は、吉良宣経に仕えたとされます。

1518年、一条房家の支援を受けた長宗我部国親が岡豊城に復帰すると、僅か10kmしか離れていない土佐・朝倉城を築いた本山氏から侵攻を受けます。
1540年、本山茂辰の攻撃を受けたようで、吉良宣直は土佐一条家に援軍を頼み、一条勢は森山砦(土佐・森山城)を築いて守備したようです。
しかし、そんな臨戦態勢の中、吉良宣直は仁淀川へ鮎漁に出かけて酒宴を開いたようで、その、のんきな情報を得た本山茂辰は、城主不在の吉良峰城を急襲しました。
そこに戻ってきた吉良宣直も、行当付近に至ると、流れ矢を眉間(みけん)に受け討ち取られ(仁淀川の如来堂にて自刃したとも)、重臣の松梛盛宗らも討死し、源希義の系統の土佐・吉良氏は滅亡しています。

吉良城

その後、本山茂辰は、吉良式部少輔茂辰と、名門の吉良氏姓を一時称して、森山城、秋山城なども含めた土佐中央部に君臨しました。
しかし、一領具足を動員して勢力拡大を行った長宗我部元親の圧迫を受け、1560年、長浜の戦いで敗れた本山茂辰は、土佐・朝倉城と土佐・吉良城に追い込まれました。
そのため、家臣の寝返りもあり、1563年、本山茂辰は、吉良城と朝倉城を放棄して、本拠の土佐・本山城に退きました。

そのあとの土佐・吉良城には、長宗我部元親の弟・長宗我部親貞が入り、吉良宣直の娘を正室にすると吉良親貞と称しています。

長宗我部家の一族は、みんな強いのですが、吉良親貞(きら-ちかさだ)も、安芸国虎一条兼定との戦いでも武功を挙げ、一条氏が反撃してきた四万十川の戦いでも勝利に導きました。
しかし、その翌年、1576年に吉良親貞(吉良左京進親貞)は死去し、吉良親実が家督を継いでいます。

智勇に優れていた吉良親実(きら-ちかざね)は、長宗我部元親の娘を正室に迎え、長宗我部家の一族でも活躍します。
しかし、豊臣秀吉の四国攻めで長宗我部氏が降伏したあと、1586年、戸次川の戦いにて、長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親が討死してしまいました。





そのため、跡取り問題が発生し、吉良親実は比江山親興と共に、亡き長宗我部元親の次男・香川親和を推しました。
しかし、権力を争っていた久武親直は、4男・長宗我部盛親を推薦したため対立が激化し、長宗我部元親の逆鱗に触れることになり、1588年10月、吉良親実は比江山親興と共に切腹となっています。

その後、土佐・吉良城は、長宗我部元親の子・長宗我部盛親に与えられました。
1600年、関ヶの戦いのあと、徳川家康によって長宗我部氏は所領没収となり、程なくして、吉良城には、山内一豊の家臣が入ったことでしょう。

吉良城跡は、標高111.2mの詰ノ城(北嶺)を中心に北曲輪群と、標高111.5mの南ノ段(南嶺)を中心にした南曲輪群と分かれています。
曲輪、土塁、堀切、畝状空堀もあり、大堀切と三重堀切は見ごたえもあるようです。





ちなみに、赤穂浪士に出て来る吉良義央(吉良上野介)は、三河・吉良氏の子孫となります。

土佐・吉良城への交通アクセス・行き方ですが、駐車場は無いようです。
ただし、春野弘岡上保育園の先のほうに駐車スペースもあるようで、その反対側に登城口があります。
雨模様で、足元が悪そうでしたので、登城は断念しています。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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