丹後・今熊野城(いまくまの-じょう)は、京都府宮津市中野にある標高200mの山城です。
比高は約190mで、天橋立の傘松公園近くにあり、眼下には日本三景の「天橋立」を望みます。
約300m北側の標高250mには、丹後・阿弥陀ヶ峰城があり更に800m北の標高450mには、成相寺城(なりあいじ-じょう)があります。
諸説ありますが、平時には麓の府中に屋敷があったと推定され、これらの城郭の総称として「丹後・府中城」とするようです。
それぞれ、最初の築城は不明ですが、丹後守護の一色氏によって築かれたとされています。
1487年生まれとされる一色義有(いっしき-よしあり)は、もともと丹後ではなく、三河・知多の一色氏の出でした。
しかし、父・一色義遠の代に、知多の領地を幕府の御料所として取り上げられます。
交渉の結果、若狭守護・武田国信が奪った、丹後の所領が返還されることになり、丹後の領地を得たようです。
そして、1498年に、その丹後の本家筋にあたる丹後守護の一色義秀が、国衆の反乱で自刃したため、父の推挙により、宗家を一色義有が継ぐことになりました。
こうして、1505年に一色義有が丹後守護に任命されましたが、丹後守護の座を狙う武田元信の工作か、翌年の1506年、管領・細川政元によって解任となります。
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そして、細川政元の命を受けた細川澄之、細川澄元、細川政賢、赤沢朝経、三好之長、香西元長、武田元信らが丹後に進入しました。
このとき、一色義有は今熊野城、延永春信は阿弥陀ヶ峰城、石川直経は加悦城にて、それぞれ籠城し、約1年間抵抗を続けたようです。
そして、1507年になると、細川政元が暗殺される事態となりました。
そのため、一色勢は反撃に出て、細川勢の赤沢朝経、古市丹後らを撃退し、
歴代の丹後・一色氏の当主は、在京することが多かったのですが、一色義有は今熊野城を本拠としたため、麓の府中の街はたいへん栄えたと言います。
1508年、一色義有は丹後守護に再任しましたが、1512年に病死しました。享年26。
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今熊野城に登城する場合には、傘松公園から成相寺に繋がる「道路」を歩いて行くと登城口があります。
道路はバスと歩行者専用で、一般車両の通行は許可されていませんが、ハイキングとして歩くのは問題ありません。
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