杣山城(そまやま-じょう)は福井県南条郡南越前町にある杣山の山頂に築かれた山城で、国史跡に指定されています。
北陸道が通過する交通の要所で、標高492mの本丸を中心として東西に東御殿・西御殿と呼ばれる曲輪が築かれています。
比高は402mのかなり堅固な山城です。
最初の築城は、鎌倉時代初期の源頼親と言う伝承があります。
鎌倉時代末期には、越後の三島郡瓜生村からこの杣山庄に移った瓜生衛が改修した模様です。
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1336年、兵糧攻めにあった金ヶ崎城から脱出した、南朝方の新田義貞が、杣山城主の瓜生保(うりゅう-たもつ)と瓜生義鑑坊の兄弟を訪ねており、瓜生勢は里見時成に随行して金ヶ崎城へ援軍として駆けつけました。
新田義貞の甥・脇屋義治から5000の兵も加勢されましたが、この動きを察知した今川頼貞に待ち伏せされ、敦賀市樫曲付近にて里見時成や瓜生保、瓜生義鑑らは討死しました。
金ヶ崎城も落城し、新田義貞は杣山城にて篭り、姫穴と呼ばれる、新田義貞の妻・匂当内待(こうとうのないし)が隠れた洞穴もあります。
しかし、1341年6月25日夜、杣山城も陥落しました。
北朝での北陸方面の司令官として活躍し、越前・藤島の戦いにて朝倉広景などの家来と新田義貞を討つと言う功績を上げたのが、斯波高経(しば-たかつね)です。
斯波高経(足利高経)は、足利一門で後醍醐天皇より越前守護職を命じられて、越前・新善光寺城を拠点としました。
こうして、杣山城には、北朝方の斯波高経の家老・増沢祐徳(増沢甲斐守祐徳)が入っています。
その後、幕府に帰参し、室町幕府三管領の筆頭として、室町幕府第2代将軍・足利義詮の後見した斯波高経でしたが、佐々木道誉など諸将の反感を買って失脚し杣山城に下がります。
そして、討伐軍が派遣され朝倉高景らが杣山城を攻撃しています。
そんな中、斯波高経は1367年7月13日に杣山城で死去。享年63。
1470年には、朝倉孝景が日野川の戦いで斯波勢に勝利して、河合宗清(河合安芸守宗清)が杣山城に入りました。
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時代が変わって戦国時代、1573年、織田信長の北陸攻めにより、刀根坂の戦いで河合安芸守は討死にしたため、廃城となりましたが、1574年、一向一揆軍が、杣山城に立て篭もったとされています。
杣山への登城道ですが、北側に3ヶ所、南側に1ヶ所の合計4ヶ所の登城口があります。
北側の第1登山口は林道が通っており、途中まで車で登ることが可能で、2~3台程度停められる駐車場もあります。
下記の地図ポイント地点は、当方のオリジナル「城めぐり」マップにて正確な場所を示させて頂いております。
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