富山県

猿倉城 塩屋秋貞が整備した堅固な山城

猿倉城

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猿倉城(さるくら-じょう)は、富山県富山市舟倉にある山城で、猿倉山(標高345m)の頂上部が本丸で、神通川を見下ろす比高は175mの堅固や城跡です。
別名が非常に多く、舟倉城、船倉城、栂尾城、栂野城、戸加尾城、外川城、戸川城と色々と呼ばれており、城名は混乱しています。
恐らく、舟倉城と岩木砦などは支城(出丸)と考えられます。
現在は、猿倉山森林公園となっていて、途中の駐車場までクルマで上がって行けるようです。


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一般的には、永禄年間(1558年~1570年)に、飛騨・古川城主の塩屋秋貞が越中に進出した際に猿倉山に築城して住んだとされます。

この塩屋秋貞(しおや-あきさだ)は、1521年生まれですが、もとは「塩」の物流をしていた飛騨の商人でしたが、輸送時の安全を守るためか、軍事力も有したようです。
他にも、魚・漆器・薬と、飛騨の鉛・生糸・馬と手広く手掛けていて、三木自綱にお金を貸しており、石高は7万石を誇ったともあります。
飛騨高山の飛騨・尾崎城を本拠にしていましたが、1564年に武田信玄の重臣・山県昌景に攻められて、飛騨・古川城(蛤城)に移っています。
この時は、江馬氏、三木氏も武田家に降伏しています。

そのあと、塩屋秋貞は上杉謙信に内通したようで、上杉勢が越中に侵攻した際には、飛騨から越中へ入り込み、江馬輝盛内ヶ島氏理、姉小路頼綱らを従えて総大将を務めたときもあったようです。

1571年に上杉家の長尾景直による書状では、上杉謙信に協力していた塩屋秋貞が、急に退却して猿倉山に城を普請し始めたので、飛騨へ戻してほしいと記載されています。

天正年間と言う事で、年は不明ですが、塩屋秋貞が不在の際に、上杉勢の津毛城主・村田大炊助(村田修理亮秀頼?)が攻めたようで、猿倉城を守備していた島村丑之助(または寺嶋三八郎)が討ち取られています。

猿倉城

1576年9月には、上杉謙信が、越中・増山城と共に栂尾城を攻略しています。
また、神岡鉱山付近で採取できた鉛を上杉家に鉄砲の弾として提供したとも言います。
その上杉謙信が死去すると、織田信長に従属しました。

1578年、塩屋秋貞(塩屋筑前守秋貞)は佐々成政に従い、越中・岩木城を拠点としましたが、上杉勢によって飛騨に撤退を余儀なくされたようです。

その後、猿倉城には、塩屋秋貞の家臣を置いたようですが、天正11年(1583年)、上杉勢になっていた、城生城斎藤信利を攻撃しています。
しかし、上杉景勝の援軍に負けて、塩屋秋貞は討死したとされます。
猪谷の河原を敗走中に馬上で射殺されたともあります。(諸説あり)

その後、猿倉城は飛騨国司・姉小路自綱の支配地となりましたが、1585年、富山の役の際に金森長近によって陥落しました。

猿倉城跡には、現在「風の城」がありますが、これは風力発電所とのことで、夜景スポットとしても人気です。
ただし、駐車場から本丸まで徒歩15分の階段は、460段もあるそうです。


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猿倉城への交通アクセス・行き方ですが、JR高山本線・笹津駅からタクシーで10分で無料駐車場となります。

今回は、雨天で、麓から望むと、山は「雲の中」でしたので、登城は断念しました。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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