富山県

蜷川館 一休さんに登場する「蜷川新右衛門」ゆかりの城跡

蜷川館

蜷川館(にながわ-やかた)は、富山県富山市蜷川にある平城で、別名を蜷川城、最勝寺館、最勝寺城、越中・太田城とも言います。
現在の最勝寺境内の一帯が城跡と言う事になります。
最初の築城は不明ですが、蜷川氏の本拠地であったことには間違いないでしょう。
蜷川氏(にながわし)は、物部氏の一族とされる宮道氏が出自で、越中国新川郡蜷川庄を所領とした蜷川親直が祖となります。





室町幕府にて政所執事を務めた伊勢氏の家臣であり、3代目の蜷川親当(蜷川智蘊)の頃から、政所代を世襲しました。
なお、蜷川氏の当主は代々「蜷川新右衛門」(にながわ-しんうえもん)と称しています。

永正2年(1505年)、月岡野の戦いにて、蜷川治部少輔が討死したとされ、1506年には、守山城主の神保氏に攻められて、蜷川城は落城したともあります。

1565年、三好三人衆と松永久通らが室町幕府13代将軍・足利義輝を討つと、蜷川親世・蜷川親長は所領を失って没落し、蜷川親世は出羽国村山郡にて没しています。
嫡子・蜷川親長ら蜷川一族の多くは、その後、土佐の長宗我部元親を頼ったようです。

ものすごく、ややっこしいのですが、できる限り、分かりやすく解説したいと思います。
長宗我部元親の正室・元親夫人は、幕府奉公衆である石谷光政と蜷川親順の娘の間に生まれた次女で、1563年に蜷川親長の仲介にて長宗我部家に嫁いでいました。
長宗我部信親長宗我部盛親阿古姫(佐竹親直の正室)など、子宝に恵まれています。





ちなみに、石谷光政には男子がいなかったため、長女の婿養子に、美濃・白樫城主である斎藤利賢の長男・石谷頼辰を迎えて家督を継がしています。
この石谷頼辰(いしがい-よりとき)の母、すなわち、美濃・白樫城主の斎藤利賢の妻は、蜷川親順の娘であり、石谷家と蜷川家はかなり結びつきの強い親類でした。
そして、のち、明智光秀の片腕として活躍する重臣の斎藤利三(さいとう-としみつ)は、美濃・白樫城主の斎藤利賢の次男ですので、斎藤利三の母は蜷川親順の娘と言う事になります。
さらに、斎藤利三の妹は、蜷川親長の正室と言う事になります。
なお、斎藤利三の母(蜷川親順の娘・蜷川親世の妹)は、斎藤利賢と離縁して、石谷光政に再嫁したと言う事になります。
いや~、わかりにくいですね。
ともあれ、明智光秀と足利将軍を支えると言う立場で、蜷川氏の結びつきは強かったようです。
蜷川貞栄・蜷川貞房という一族が、明智家の家臣にも見受けられます。

15代の足利義昭に仕えた蜷川親貞は、足利義昭が毛利家を頼って鞆の浦に移ると、家臣化して、蜷川秋秀、蜷川元親、蜷川元勝と続き、のち長州藩士として続きました。





さて、蜷川親当は、一休宗純の弟子だったようで、アニメ「一休さん」に登場する寺社奉行・蜷川新右衛門のモデルとなりました。
蜷川館主・蜷川新右衛門親当がそのモチーフと言う事になります。

長宗我部家を頼っていた蜷川親長(にながわ-ちかなが)は、関ヶ原の戦いのあと、足利将軍家の儀礼をよく知る者として、500石にて徳川家康の旗本になって、血脈を残しています。
また、格闘家の武蔵さんの祖先にもなります。

また、最勝寺は、蜷川五郎親綱が父・蜷川親直の菩提を弔う為に、最初に黒崎に建立したのがはじまりとされ、蜷川氏の菩提寺になっています。

蜷川城への交通アクセスですが、北陸新幹線の富山駅からバス利用となります。
駐車場は見当たらなかったため、簡単な撮影に留めて、このあとは、上熊野城に向かいました。

足利義昭とは~信長包囲網など外交手腕に優れた最後の室町幕府将軍
上熊野城 二宮左衛門太夫(二宮余五郎)
北陸の史跡巡りにも便利なオリジナル地図

 

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越中
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土塁や堀が僅かに残るようです。




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