大峪城(おおがけ-じょう)は、富山県富山市五福にある平城です。
別名は伊賀城、大掛城、大懸城、大峪塁とも言います。
最初の築城としては、戦国時代に富山城を整備した神保長職とされ、背後の越中・白鳥城も同時期に改修された模様です。
その後、1585年、豊臣勢が富山城の佐々成政を攻撃した際に、織田信雄が越中・白鳥城に陣を置きました。
このとき、越中・安田城と共に改修が行われたとも言います。
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そのあと、越中が前田利家に与えられると、当初、越中・守山城に前田利長、越中・木舟城に前田秀継、越中・増山城に山崎長鏡、城生城に青山佐渡、越中・白鳥城には岡島一吉が入りました。
そして、越中・安田城は片山延高(片山伊賀守延高)に与えられたようです。
片山延高は「伊賀守」であったため、城の名前も、伊賀城と呼ばれる由縁になっています。
下記のように、大峪城跡は、やや微高地となっていました。
1597年に、片山延高は、前田利長の命を受けて呉服山(越中・白鳥城)の守備に就きました。
しかし、強風を理由に麓に降りて、越中・安田城に入っていますが、この頃から、大峪城の動向は不明になりますが、大峪城には代官が置かれようです。
なお、片山延高は前田家の知恵袋だったともされます。
それが幸いしてか、前田利家は、徳川家康に内通の疑いもかけていたようで、遺言書に片山延高には油断するなとの記載があります。
前田利家は、1599年閏3月3日に、豊臣秀頼の行く末を案じながら、大坂城下で死去しました。
その7日後に、前田利長の命を受けた石川源太、松田直憲によって、片山延高は大坂で暗殺されています。
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現在の五福小学校がある場所が、大峪城跡になります。
小学校の校舎がある敷地が、付近よりも1段高くなっており、本丸があったものと推測しますが、周辺は住宅街で、遺構などは失われているようです。
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