陸奥・一関城(いちのせき-じょう)は、岩手県一関市の市街地に隣接する釣山(つりやま)にある山城で、標高は90m、比高は60mほどになります。
別名は釣山館、釣山城、高崎城、篠見山城、鶴舞城とも言い、現在は釣山公園として整備されています。
頂上からは一関市内や束稲山が見えます。
最初の築城は不明ですが、平安時代に蝦夷討伐で遠征した、坂上田村麻呂が臨時に陣を張り、高崎城と命名し、達谷窟の悪路王と戦ったともされています。
まぁ、坂上田村麻呂が陣を置いた場所としては、陸奥・二桜城など、この辺りには多いです。
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その後、天喜年間(1053年~1058年)には、俘囚の長である安倍貞任の弟・磐井五郎家任が砦として使用したともあります。
しかし、磐井五郎家任は前九年の役にて追われ、養父・磐井良照が守備していた小松柵にて籠城したとされます。
康平年間(1058年~1065年)には、源頼義・源義家の親子の篠見山の陣地であった。
このように、平泉で藤原秀衡が統治していたころには、陣地の「堰」があったことから、一関と呼ばれている次第です。
1189年、源頼朝によって奥州・藤原氏が滅亡した際に、功績があった葛西清重が奥州総奉行に任ぜられて、葛西氏の所領となりました。
葛西氏は、武蔵・平塚城の豊嶋氏の一族で、葛西城から奥州に入ると、石巻城を本拠として、寺池城なども整備し勢力を拡大しました。
一関城には家臣である興田氏、高崎氏などが居城としたようですが、室町時代にはに葛西満信と名生城?の大崎詮持と、奥州探題となった四本松城の宇都宮氏広と争いを繰り広げると領地を更に増やしています。
しかし、伊達氏から養子を迎えると、葛西氏は内紛になっています。
戦国時代に葛西晴胤が、本拠地を寺池城に移した頃には、家臣の小野寺道照が一関城に入って改修したとされています。
葛西晴信のとき、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めとなりますが、大崎義隆と争っていたため、小田原城への参陣ができずにいます。
その結果、奥州仕置となって、石川昭光、江刺重恒、葛西晴信、大崎義隆、和賀義忠、稗貫広忠、黒川晴氏、田村宗顕、白河義親らが所領没収となりました。
旧大崎・葛西領約30万石を与えられたのは木村吉清でしたが、厳しい年貢や刀狩りをした結果、改易された葛西氏・大崎氏の旧臣が中心となって葛西大崎一揆が岩手沢城で発生します。
1591年8月、伊達政宗が一揆の首謀者(20名とも)に領土を安堵するとして集めますが 泉田重光・屋代景頼に命じて殺害させました。
須江山の惨劇(糠塚館で悲劇)と言いますが、命を落とした武将には、一関城主であった小野寺道照の名も見受けられます。
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一関は伊達領となり、留守政景が一関城に入ると北東麓に居館を構えました。
そのあとには、伊達政宗の10男・伊達宗勝が3万石で「一関藩」が立藩しています。
しかし、伊達騒動によって伊達宗勝は所領没収となり、1682年、伊達氏一門の田村建顕(たむら-たつあき)が岩沼要害から入ると一関藩として明治維新まで続きました。
ただし、一関藩の頃には、すでに山城は使われておらず、麓の西城病院から西側一帯に、藩庁(陣屋)が置かれました。
国道沿いにあるやぐらの広場には、一関城本丸絵図という案内板も設置されています。
なお、世界遺産になっている平泉・毛越寺の山門は、一関城(一関陣屋)の大手門を移築したものとなります。
一関城への交通アクセスですが、JR東北新幹線の一ノ関駅から徒歩約15分となります。
駐車場は釣山公園の第2駐車場が利用できます。
ただし、城の遺構はほとんどわからなく改変されてしまっているようで、遺構はあまりないようです。
まもなく4月になる季節でしたが、雪も降る天気になった言うより、寒くて、登城は断念しました。
春には桜の花見、秋には紅葉が楽しめるほか、夏には隣の磐井川にて花火大会もあるようです。
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