常陸・橋本城
常陸・橋本城(はしもと-じょう)は、茨城県桜川市上城にある山城で、曲輪・枡形・空堀・土塁などが認められるようです。
標高227m、比高は160mありますが、山肌は切り立ってはいないため、堅固と言う印象はありません。
最初の築城は不明ですが、南北朝時代に谷中将国(谷中豊前守将国)が築城したともされます。
この近くにあるも所在が不明な南北朝時代の中郡城だとする説もあります。
その他には、1405年に、太田定経(太田伊勢守定経)なる武将が築城したともされます。
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その後、谷中正国(谷中大学正国)が入りますが、戦国時代には、片見晴信(片見伊賀晴信)の居城となりましたが、合戦で一族もろとも討死した模様です。
そして、谷中正国の子孫が笠間城の出城として橋本城を居城としました。
益子氏と笠間氏は共に宇都宮氏に従っていましたが、1583年に、百姓どおしの境界線争いから、冨谷合戦(冨谷の戦い)となり、笠間氏と益子氏は争います。
このとき、谷中玄蕃は笠間勢として常陸・橋本城の守備を任されました。
最終的には、益子勢が破れて、北側にある加藤大隈守の冨谷城が落城しています。
主郭を中心に北の曲輪は2段、南側に1段あり、空堀もなかなか深いようです。
となると、戦国時代に改良されたと考えてよいでしょう。
登山する場合には、北側の爪黒神社にクルマを止めて、神社裏から堀底道の登山道があるようです。
今回は予定外の訪問で時間が無く麓から撮影のみに留めました。
当方のオリジナル地図では、爪黒神社の場所をポイントしております。
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